コミケで学んだことは2012/08/12 21:57

コミケが終わった模様です、いや、行ってないんですが。

私が始めてコミケに行ったのは大学生のときで、いとこが行きたいのについて行きました。すでにそのころは地元の小さい同人イベントには出るようになっていて、規模がでかくて集まる人も全国津々浦々というところ以外は本質的に地元イベントと大きな差はありませんでした。ただ、マイナーなジャンルでもここにくれば何でもできるという感覚はありました。

コミケに参加するようになったころ、それは仲間内で同人ソフトジャンルで挑戦していましたが、結局何か出せたのは一度きりでした。このころの失敗への反省が今を導いているのだけど、実にならぬ話は仲間内ですればよいのでありまして、本当の意味でコミケに参加できるようになったのは、A先生と二人で独自の計画を立ててからでした。

昔友人うちで集まるとよくゲームをしていて、それはゲームの新旧を問わず、いろんなものに手を出していました。そこでたまたまやった MegaDrive 専用ソフト Bare Knuckle II (以下BK2)がその後の運命を変えていきました。
それはA先生の持っていたソフトだったけれど、面白かったので借りて、ひとりこつこつ研究を重ねました。やがてA先生が来るたび二人用でやるようになり、鍛錬を重ねていくうち、標準で最高の難易度である Hardest をクリアできるようになっていきました。最初は Easy ですらクリア不可能だったのに。

ちょどそのころ、私は大学で学生兼バイトもしておりましたが、同僚で KOF97 の全国チャンプというすごい実力を持った友人と知り合うことになります。余談ですが、そのバイトで最初にペアを組んで仕事をした熊谷という人間は、気がつくと千葉市長になっていました。彼の経歴には、学生時代のこのバイトには意味があったと書いてあります。大学の中にある端末室での学生対応、要は学生がコンピューターを使っていて困ったときに助けを求めに来るところの対応者です。何気に情報系技術が要求されたので、私もかなりの勉強になりました。しかし仕事中にミニ四駆の話とかどうでもいい雑談していた相手が千葉市長とはねぇ。あの人なら行政の活動に Twitter とか平気で使うでしょうよ、世間がまだモデムとかISDNとか低速回線従量制で動いていた時代から、大学の誇る100MB回線使ってあれこれやってたんだから。こりゃ余談ね。
話を戻して、KOFのすごい彼、ゲーム名 sizer という彼は、KOFのシリーズで連続技映像を作っていました。最終的には編集してDVDにしたいと言っていましたが、元となる映像はけっこう見せてもらいました。なぜかモータルコンバットとかの連続技もあったけど・・・スーパーマリオ3の最速クリア映像なんかも持っていました。

うちらもBK2で何かやれるんじゃないかね、一方的なもちかけで、ほとんど具体的な計画もなく、A先生を巻き込んでコミケの申し込みをしました。最新型のゲーム機が斬新さを出し切れず停滞し、一部マニアはかつて遊んだ「レトロゲー」に走り、昔のゲームがアングラなところで注目を受けてきている時代でした。
本来コミケではゲームのリプレイ映像を販売することは禁止になっていましたが、需要が多くなっており、コミケの対応も知って知らぬ振り、現状追認で動いていました。
そしてA先生と最初に共同で作ったのが「BK MANIA」という題のDVDでした。私の Mail の bkmania... の部分はそこが由来です。苦労はありながらもコミケまでに完成し、生産少量ながらも完売して大喜びでした。BK2は四人使えるキャラがいて、二人用の攻略映像を主体としていたけれど、一度に四人は容量的にも時間的にも無理だったため、最初は A&B 編のみで出し、一年を経て残りの M&S を出しました。
このときコミケでレトロゲーOnlyのイベントへの誘いも受け、そちらへも活動を拡大していきました。sizer 氏は彼の友人と組んで、カイの冒険やドルアーガの塔の全面クリア映像を作って、独自サークルを組んでやっていました。ある意味私が巻き込んだのですが。

DVD の内容は攻略が中心となるクリア映像を一本と、Super Play, Tough Play, およびキャラ別 Technique という内容です。納得する映像が出来上がるまで何度もプレイしなおし、経過で録画した4本のクリア映像から一本を見本として使い、ボツ三本から価値あるプレイを切り抜いていきました。アホみたいな編集時間と、映像編集ソフトの学習、DVDオーサリング技術、PCでの映像編集基礎は今でも役に立っています。
とにかく苦労したのが映像と音声がずれる「音ズレ」だったのですが、最初は本番前二日になって苦し紛れの策で対処し、次からは対策を立てて、キャプチャーも新しい機械を使ってやりました。BK2 の総仕上げとして作った攻略本は開発級のデータを詰め、印刷所に出して刊行しました。A先生が名誉会員になった後は、鉄拳映像集や Thunder Force IV の映像を作りました。しかしコミケでの規制が少しずつうるさくなり、Only 限定で参加するようになりました。最初募集60だったOnly は、今120まで拡大しています。やはりDL販売からそちらへ興味を持ち始める人も増えてきたみたいで、今後もいろんな形で広まっていくことでしょう。

最新ゲームの流れなど関係なく、ただひたすら1992年製のゲームを愛してやり続け、その魅力を伝えるために同人をやっていました。いまだにプレイしてますからね、一人でも、A先生が来たときも。
実のところ、昔のゲームは制作会社がつぶれるとどこかへ消えてしまったり、存在はしていても「著作権の壁」に囲まれながら世間からいなくなっていきます。今こそ昔のゲームがDLで買えるようにもなってきたけど、それはほんの一部。
少なくとも僕ら世代はファミコンやら MegaDrive やら、そういった家庭用ビデオゲームを日常のものとして受け入れつつ育ってきました。それは美術館に飾ってある絵画より、コンサートホールで一流の演奏者が行う演奏より、すばらしき日本の工芸品より、もっと深いところで僕らの心に刺さっています。子供のころは勉強よりも遊んだものの方がずっと大切で、その中で育ってきたけど、使われた遊び道具は消耗品のごとく消えていきます。それをまじめに考えようとしても、サブカル扱いでした。もちろん、世間に出回るアニメやゲームの検証本は、個人の趣味的な世界を出ないようなものが多く、文化的、社会的、技術的立場から理論的に検証する立場に欠いているものがほとんどであると思います。しかし、今このような時代では、情報化され、消耗されていくものの中にこそ創造の底力はあるように感じます。

しょせん僕らのやっていることも、趣味的な域を出ていないでしょう。ただ、こんなものがあって、それの魅力を伝わりやすい形で伝えていくことには意味を感じました。みんなが大切なことに気付いたときには、何があったのか誰も知らないでは困るのです。
私がコミケでレトロゲー攻略をやって、Only に出て仲間と知り合ううち、保存活動を個人単位でもかなりのレベルで行っている人たちにも会いました。実は攻略もゲームの仕組みを理論的に詰めていくことに他ならず、人が遊びに対して何を求めていくのか、それが今後どの分野でどう活かされていくるのか、気がつくとそれを作った人が何を考え、何を実現しようとしたのか、創造の原点にたどり着くことができます。

次にレトロゲーの世界で求められるのは、こうしたことを通して見る目、個人が保有している情報を統括しながら、これがただのサブカルでも世界に売り込める日本のコンテンツとか響きのいいことでなく、今日の情報化への影響力、文化的経済的影響力、社会的見地も含めて考えていくことだと思います。私ぐらいの世代が最初に慣れしたしんだコンピューターはパソコンよりゲーム機だったでしょう。今日コンピューターが世間に溶け込んでいったのは、安くて手軽に使えるゲーム機というコンピューターがあったことは、無縁であると言えないはずです。でも、そこをきちんと整理しないといけない。同人で活動して攻略やら保存やら、過去のゲームにのめりこんで漫画描いている人やら、そういう人がいる限り、僕らが遊んだ、まさしく僕らにとって文化であったことは残していけるし、残していく価値があると思っています。他人事のように書いているけど、自分が大学で何をしてきたかを考えれば、私は何かできるかもしれません。長い目で見ています。それでも研究第一弾は、論文として、同時に同人誌として出しました。きちんとしたデータと論考を行えば、研究機関も無視できない存在であることは実感しています。大学院ではメインのことよりほかにこっち関係の研究も実際やっていたのですが、残念ながら病に伏して止まっています。

つまりコミケやってて私に残ったものはそこでした。今はワンフェス活動が中心になって、レトロゲー同人活動はしていないけれど、そっちに目を向けるくらいの余裕ができるようミニチュア製作事業のやり方は考えていこうと思います。それだけじゃあ頭も固くなっちゃうし。

ん、レトロゲーとは関係なく普通に漫画描いてコミケやOnlyに出たこともありますけどね、それはもう病に食われていって意味なく終わりました。地味に評判はよかったんだけど。