繰り返し書く同じこと2018/03/11 21:44

あの日から7年、などとニュースや新聞は取り上げていることでしょう。ここにいるとテレビをつけない、いや、そもそもコンセントごと抜いてあり、テレビは見ません。土曜日のイタリア村暮らしを見よう計画が失敗しただけで、テレビとは縁が切れております。毎日22時からやっている、クイズノーベル賞も、衛星のため見ていません。ネットもないから世間の事情もわからず、世の中どうなっているんでしょうね。
あの地震さえなければ私は印西に来ていなかったかもわからないし、いずれ来ていたかもわからないし。とにかく、震災の一週間後に祖母は入院したのでした。それより数年前から物忘れをするようになり、ずっと薬を飲んでいました。そしてあの震災の少し前、取手の家の車庫のところで祖母がふらついて倒れ、母とおじさんが抱え起こした光景を後ろから見ていたのが、私の脳裏から離れないのはなぜでしょうか。そのころから脳梗塞の疑いがあり、もともと3月18日から入院することが決まっていました。そして震災があり、取手の家は大きなダメージを受けます。壁の間に隙間ができたり、屋根の瓦が落ちたりしました。家そのものが少し歪んだ感じです。入院した病院では柱にヒひびが入り、一部の壁は抜け落ちて、シートがかかっていました。医者や看護師が行き交う病棟で、作業服を着た人達が、あちこち修理にまわり、普段の病院ではない光景が広がっていました。
祖母が退院するには、脳梗塞により体に不自由が生じたため、バリアフリー設計にする必要があり、場合によっては車椅子で移動できる空間が必要でした。取手の家は古く、バリアフリーにするには廊下が狭く、地震で受けた痛みの改修も必要でした。なおかつ、介護も必要になります。そのため、おじさんと祖母の住んでいた取手と、母、つまりうちの四街道の中間点にあり、生活に不自由のない街である印西に家を買い、祖母とおじさんはそこに住むことになったのです。その決定と準備は、わずか一ヶ月で行われました。おじさんがとにかく忙しく、朝Gに通いつめ、いろんな手続きやら書類の準備をしていたようです。そういうところはおじさんはとても生真面目で、お前少し休まないと倒れるぞと、母がよく言っておりました。
介護には、祖母の子である、母とおじさんの二人の手が必要で、取手と四街道という距離は開きすぎだったのです。印西から四街道まで、車で25分程度です。取手だと一時間かかります。しかし、取手の家は残すために、財産管理などの関係上、おじさんは取手市民のままで、祖母だけが印西市民となりました。おじさんは取手と印西の間を行き来しながら、時には病院まで祖母を連れて行ったり、必要な事務手続きをしていました。印西から取手までなら往復もさほど大変ではなく、この地は四街道と取手の双方を行き来できるちょうどよい場所でした。なおかつ、町全体が新興住宅地であり、買い物をするにもなにひとつ不便がありません。この家から、衣食住に必要なものが歩いていける距離ですべて手に入ります。服ならサンキ、薬はカワチ、スーパーカスミもあれば、超巨大ホームセンターのジョイフル本田、その中のスーパーであるJ肉、Ksデンキ、本屋に宮脇書店、靴ならABCマート、家具は東京インテリア。この家から歩いて10分の場所にすべてがあります。東京インテリアは10分以上かかるかな ? でも、車があれば全部5分以内です。こうした街が鉄道沿線に延々とつながって構成されているのが印西で、この印西牧の原からとなり駅の千葉NTの先まで、買い物できる場所、食べられる場所がずっと続いています。介護をすると家を離れにくくなるおじさんにとって、ここは祖母を介護しながら暮らすにも非常に便利な場所でした。
祖母の状態が悪くなり、デイサービスから特養へ移るため、市の福祉サービスを使って、どこに入るか、本当に入れるのか、母とおじさんが検討していました。しかし、おじさんが1月に風邪をひいてから肝臓の調子が急に悪くなり、少しずつ腹水がたまるようになってきました。そんな矢先、そう、2013年のこの日、肝臓癌が発見されたことを報告され、次の日は私と母とおじさんの三人で、癌の説明を聞きに病院へ行くのでした。おじさんは糖尿を抱えていたため、肝機能が悪く、それが風邪により大きく低下したようで、手術はできませんでした。いや、逆かもしれません。肝機能が低下し、免疫力が弱ったからこその風邪だった可能性もあります。代わりの治療法はいくつかあり、それができる病院を探すべく、他の病院へあたるよう言われ、探していた先で、余命一年を告げられました。ひどいもんです。初診で、紹介状のデータを見ながら、寿命とか、厳しい話は前の病院でされましたかと言われ、何やらバッグからメモ帳のようなものを取り出し、それのデータを見ながら、この様子ですと、平均的に寿命はあと一年くらいですね、と平然と言われました。そういうのってさ、言い方があるでしょう。まして本人の前で。一日三万円のVIP病室ならうちで入院できますけど、そちらはどうですかと勧められ、んなことできるかよ、と言ったら、結局治療を断られました。千葉大病院め。大学病院は、癌の治療から5年以上生きられた割合を実績として出すため、余命一年の患者を入れることはしないんですよ、実績が下がるから。
ま、それで結局、祖母の施設探しは母とうちの家族でやることとなり、施設が見つかって入れた頃、おじさんが死ぬわけです。最初に発見された時、癌のステージは低いけど、肝臓の表面についている癌があり、それが非常に危険で、もしそれが破裂したり外れたりすると出血し、手の施しようがなくなると言われました。実際発見からわずか3ヶ月でそうなってしまったわけで。
印西は結果的に2年で空き家となり、祖母は生きているので祖母の財産ですが、管理はうちでやり、実質的に別荘となっております。それを有効活用しながら、私がこうしてこんなことを書いているのでした。悪いことはいろいろあったけれども、この家で同人誌の原稿が進み、ワンフェスの商品ができるなら、それが一番いいんじゃないですかね。悲しい思い出しかないよりも、ここで新しい歴史を刻んだほうが、この家のため、ひいては、私自身のためになります。変なこと思い出して泣きたくなるより、生産的に活用しましょう。しかし、仕事に囲まれていると完全に逃げ場がない家です。
たまには食事以外のことを書いてみました。私が小物作りを始めたのも、震災の影響なんですよ。ワンフェスに参加することになっていたのが、震災で版権申請ができなくなり、個々で申請手続きを行うように臨時の措置がとられました。それをやるのが面倒で、以前から少し売っていた、ちゃぶ台セットとみかん、せんべいが人気だったから、もっと品数を増やして、フィギュアはやめてそっちを中心に作ろうと決めたのです。それがまさか行列になるとは思ってもなかったわけで・・・。何かが壊れて何かが失われても、そこから新たなことが始まるきっかけにもなるのですよ。生きていくには、それを大事にしないと。そう、生産的にね。