四街道部会印西編2020/01/04 21:35

今日は四街道部会の食事会があります。今までは四街道のJで開催していたのですが、私が印西へ移動してしまい、おまけに四街道へ戻る予定が今のところない上に、交通手段が自転車のみという状態でして、開催場所を印西にしていただきました。ありがたいことです。体の調整をするためには、印西の環境は欠かせないのでありました。
12時半にココス直接集合約束で、行くとちょうど車と行き会いました。これで三人はそろったけれど、一人足りない・・・。うーむ、行くべきココスを間違えていたようで、木下付近のココスへ行ってしまったようです。TwitterではJ本のとなりと合わせておいたのですが、Twitterをやっていなければどうしようもなく。それでも揃ったから大丈夫ですよ。
会はぶっ通しで夜の23時まで行われました。私は昼食を食べてから行って、まずはデザで始めまして、夜は食事です。ただ、いかんせん胃の調子が悪かったもので、それだけがちょっとつらい時間でした。席はVIP席と呼ばれる、円形の席で、四人でわいわいやるにはいい場所でした。
栗ちゃんが春からいよいよ大学院生となります。卒業研究の提出は1月で、直前のほぼ完成稿を見せてもらいました。私は全部に目を通しました。実験方法の詳細まではさすがに専門家でないためわからないものの、理屈はわかります。
かつて栗ちゃん用に買ってきた、生物系同人誌で、分子系統学での論文の書き方で、重要になる点は何なのかの解説がありました。塩基配列だけ調べて、こうなったからこんな系統樹ができます、ではダメで、なぜそんな系統になっていったのか、生物学的別のアプローチ方法と、実際の分子系統樹の結果が同じになっていることで、初めて意味を成すと知りました。
それのおかげで、論文を理解する基本的な知識がありました。細かい系統樹の作り方や分析のやり方はわかりません。でも、そうなる結果を生物地理学の観点から考えている流れはわかります。生物地理学は、地学的変化が生物の系統変化に影響を与えることを考える学問です。
例えば、大陸は移動して、海の形も変化してきました。今までつながっていた海が陸地で遮られるようになったところに、魚の個体群がいて、陸地を境にふたつに分かれてしまったとします。長い年月が経過し、その個体群同士が交わることなく生活しているうち、別の種になってしまったと、こんな感じです。
そして、栗ちゃんのカレイの研究は、分子系統樹を作っていき、そうなった理由を生物地理学で考えるものでした。そのために化石を調べたり、様々な場所で取れるサンプル集めも重要です。卒業研究の段階では、まずデータを取るためだけでかなりの労力が割かれていました。生物地理学からの裏付けはまだ完成しておらず、更なる研究を必要とするところで終わっていますが、何を調べていくのか、どんな課題があるのかは見えています。
なるほど、と思わせるところがたくさんあり、研究が未完成なところは、大学院で進めればよいでしょう。大学院での進行状況にもよりますが、博士まで進んで、博士号と取るところまで行くべきではと、私は思いました。それで将来何になるというのは別問題です。やってきたことを終わらせて、形に残せれば、それだけでも人生の実績となります。
一方で、ひとつのものだけに集中しているとつぶしがきかないのも事実で、どこかで別の保険も作っておきます。だいたい、学問の世界で、それをやったから何になるなんて考えていてはいけません。結果、金にならないことは価値がないとか、生きていくために必要ないとか、厭世的価値観に陥っては、人は知も学問も必要としないまま退化していきます。
大事なことは、自分のやっていることを人に伝えることでしょう。まずは自分の探求を突き詰める。それをただの自己満足で終わりにしては、これもある種の厭世観です。何のためになるなんて考えても意味ないから、好きなことだけやればいい。それでは、知はいつまでたっても人類のものになりません。学者は論文がすべてと考えるでしょう。そりゃ学者だからです。学者にとっては論文の数、評価が自身の評価につながります。いわば、成績、お金。
私が中学生のころは、成績だけよければそれでいいなんて、考えたことはありませんでした。成績がよいのは美徳のひとつ、努力のひとつ。でも成績がいいだけの生徒に誰も魅力なんて感じてくれなくて、運動ができる、ピアノができる、音楽に広い理解がある、絵が描ける。そうやって魅力を磨いていき、生徒会をやってみるとか、付加価値がついていきます。
いい歳した人間になっても、お金さえあれば幸せでしょうか。そういうのと同じで、論文で評価されれば一流の学者なのか、と私は常々思います。その世界だけの評価以外に価値を見出せなくなったら、社会から隔絶されているのと同じです。私みたいに、自ら進んで社会からの隔絶を選んでいる人間ですら、そんな風に考えませんよ。
栗ちゃんが保険を作るのは、多分そのうち自分で身に着けていくでしょうから、特に心配もしていません。私にできることは、背中を押すことですかね。あとは、その世界だけに閉じこもる人間になってほしくないこと。
私はかつて、同じ分野にしがみつく人間たちに、ハブにされた経験を持ちます。この分野でもこうした考え方は必要、今自分たちが研究を進めていられるのは、研究を進められる仕組みが「旧式」だったからで、その根底が覆れば、自分たちは同じ場所に同じようにいられなくなる。その仕組みは情報通信によって壊されつつある。だから、別の分野や視点から、自分たちのやっていることを見てみよう。時に、自己否定してみよう。そんな提唱をした結果、相手にしてもらえなくなり、他の場所へ行くように言われました。
でも10年しないうち、社会的需要が彼らの旧体制を許してくれなくなり、最終的には学部再編というところまで行ってしまいました。その時、彼らの言った言葉は、私がかつて言っていたこととほぼ同じでした。相手が一人の学生だったから、簡単に殺せたんです。ところが、私の言っていたことが事実として認識され始め、大学全体として今のままでいかがなものかと動いたときに、学部が大学全体の意向を無視することはできませんでした。なんせ、学生が集まらなければ大学は行き詰りますから。
私が自分を文学部として認めたくないのは、これが最大の理由です。恩恵もあるけど、恨みの方が大きいからです。自分たちのやっていることをわかりやすく多くの人にわかってもらおう、伝えていこうという考え方は、学問は開かれたものでなければならないという考えからでした。自分たちの満足のためにやっていて、みんなが相手を知らないようでは、学問はいずれ止まってしまうでしょう。わかりやすく伝えることは、自分たちのやっていることを客観的に見ること、実社会から見ることそのものです。
常々、研究することと、それを人にわかりやすく説明して伝えることは、セットであるべきと思うのです。それが研究者自身を守ることにもなります。あの人たちはああいうことのために一生懸命なんだと、わかってもらえると、思わぬところで味方ができるかもしれません。専門家でしかわからないことを人に伝えるために、何をすればよいのか考えると、その結果、次世代の人が興味を持ち、その道に進んでくれるかもしれません。
松本城を見た時に書きました。松本城の石垣の石ひとつを誰が運んだかはわからない。でも、誰がやったかわからないことが形を成し、城となって残り、町の人のシンボルとなり、歴史の証拠になる。
私は、名も残さず石垣を積んだことで満足できる人です。一方、世には、私が建てたのだと、名前を残したい人もいます。歴史に名を刻むのは名誉なことでしょう。そうしたい人は、そうすればいいんです。
私は名誉も学籍も研究職もないけれど、学問を捨てようとは思いませんね。意味がないとも思いませんね。だから、栗ちゃんが持ってきた論文を読むし、意見もします。これを支えてくれているのは、サイエンスコンダクターとしてコミケで地味に活動している人々でもあるんですよ。

他にいろいろ話はあったんですがまぁ、まず面白かったのはこれかな。悲しい話題もいくつかありました。楽しい話題もありました。それはそれで、書き残しておこうと思ったのはこのことでした。