大人の事情で見ろ ― 2010/09/01 23:06
卒論を書いてからけっこうな年月が経過しているわけだから、自分が培ってきた理論もより深く見直さないといけないことを実感しつつ、適当に流されています。流されもします、それでなんとかなっちゃうから。でもやっぱりそれはいかんなということで、たまには頭を使って考えようじゃないかという話。
今では普通になったコンテンツ運用とかビジネスとかの話。私はその世界に大学二年のとき足を突っ込みました。当時はまだコンテンツ運用とかの概念が世間的に一般的ではなくて、ビジネスも手法として確立していませんでした。
で、なぜそこに興味が向いたかというと、いつの時代からかヨーロッパから持ち込まれ、便利なものとして定着していた「作品」という概念が、普遍的なものでないことに気付いたからです。
日本で最初に、体制を持ってその概念を覆したのがポケモンでした。ポケモンにはゲームがある、アニメがある、映画がある、マンガもある、カードゲームもある、他数え切れないくらい色んなものが派生しておりますが、それは決して単純な「ゲームのアニメ化、それに伴う人気の上昇と商品展開」ではありませんでした。当初から計画的に版権窓口が一本化された、個々のメディアの集合体だったのです。つまり、ゲームがすべてじゃない。アニメがすべてじゃない。それらは「ポケモン」という世界観を形成し、理解するためのひとつのメディア媒体で、どれかをみれば世界が理解できるというものではなく、いろんなポケモンメディアに触れて初めてその世界観を理解できるというものでした。
従来の作品がそれをみれば理解できる「閉じられた」ものならば、ポケモンは他のメディアと相互関係のある「開かれた」メディアでした。そして開かれたポケモンメディア群をひとつの版権窓口で統括し、管理しています。もちろん、ポケモンは最初からそうであったわけではありません。しかし、そのように管理されるようになったとき、閉じられた作品たちを個々で扱ってきた文学という学問は、大きな壁にぶつかったはずです。
確かに、ポケモンの映画は単品の映像作品として学問することができます。しかし、そこだけ見ていてもポケモン世界は見えないわけで、映像を理解するためにはほかのポケモンメディアが必要になってしまう、そんなものが登場しました。しかもそれは作品を見る学問の世界から発生したのではなく、発達した情報通信技術とそれを基盤にしたビジネスの仕組みがもたらしたものでした。
さあ、技術と社会がもたらしたこの変革を、文学部ではどう対処して行ったらいいでしょうか。文学部が普遍的と信じてきた作品の概念は、今後鑑賞学の世界でどう変わっていくのか。
とまあ、こういうことを文学部で追求していたら、追い出されました。例にとったのはポケモンですが、実際の研究ではポケモンをきっかけに、そこから掘り下げされた話をしていたわけで、結局のところ誰も私の話を理解してくれませんでした。作品見たい人達に、人がモノを買うときの意思決定方法を、情報の流れから理解するとか、情報通信とはいかなるもので、何をするのかとか、関係ないわけですからね。でも、時代の流れは旧来の概念を変えていきます。無視していれば、取り残されて象牙の塔にこもることになるでしょう。それでも相手にしてもらえないんですね。実際相手にしなくても、やっていけるのですから。
だから私は文学部が嫌いです。新しい世界を理解しようとしていた人間を認めつつも、結局追い出したから。誰も私の話にまともに耳を貸してくれなかったから。そのくせ卒業から5年たったころ、私の言っていたことをやるような学部を設立しました。遅いんですよ。内容もまだまだですけどね。
でも、たった二人だけ、同じ演劇映像専修の中に私の考えを理解してくれる人がいました。今思えばいろいろ準備しておいて、卒業したときそいつと結婚すればよかったんだとかはどうでもいいや。うーん、人間って大切なときに気付かないものなのよね。
と、こんな話はおいておき、ポケモンのコンテンツ運用を皮切りに、今日ではコンテンツ運用体制が確立、発展し、ひとつの原作でも統括的に管理されるようになりました。さっきアニメに出てきたモノが中間のCMで新商品として流れるというのは、すでに当たり前のことになっています。これはちゃんとしたスポンサー同士の結託がなければ不可能なことです。
それじゃあ、最近のアニメはどうして作られるんでしょうかね。ここまできてまさか「人気があるから」とか考えますか。そうじゃない、確かに人気のある原作をアニメ化すればリスクは低いけれど、そうじゃなくって、最初からこけない体制でアニメを作り、原作や他メディアでの展開も含めて、計画的に商品展開を行うんです。だから、原作マンガが4巻ぐらいしか出てないのにアニメ化とかやっちゃうわけです。
電撃なんとかとかはすごいですね、各所のイベントに半年前からデモ映像を流し、原作や他の電撃シリーズなんかが紹介されている冊子を配るとか、ポスターを作って配るとか、前準備に念入り。アニメ公開前からWebを用意し、原作にはアニメ化決定の帯を付け、書店でも目立つようにしてもらい、DVD化と発売日程は初巻ぐらいは決まっている。OPやEDの予定もどこぞの適当な歌手を選んで当てず、声優に歌わせてCDとアニメが同時リリースぐらい。
最初にこれだけやるのは、アニメ化前に原作に手をつけさせるのが目的だと思います。アニメをやると知名度はぐっと上がる。でも、アニメの映像そのものは、最初にテレビで流してしまうのだから基本無料。DVDやら有料配信やらを含めても、収益はものすごく大きいかといえば、本当に大当たりしたものを除けば、さほど収益にはならないでしょう。
そう考えると、アニメ化の利益はどこにあるのでしょうか。やっぱり、原作を売るための宣伝費と考えるのが妥当ですね。アニメが終わってしまえば、やはり関連商品は第一線から引いてしまいますから、そのとき客が引いてしまうのなら、原作にとって致命的ダメージとなります。昔はそれがまかり通っていたのですが、それでは次々と作品を消耗していくことになり、限りある原作を有効活用できません。なので、例えばひとつの出版社が抱えている原作たちを運用できる資産と考え、資産を守りつつ利益を向上させようと考えるならば、宣伝が第一です。その宣伝にアニメを使うと。しかしアニメは終わったときの収束が大きいから、終わる前に原作への注目を大きく引いておく、こんな感じじゃないですかね。
もちろん、おもちゃを売るためのアニメとか、世の中いろんなタイプがありますけれど、特に深夜帯やローカル局中心に展開するアニメはこういう系列が多いでしょう。
アニメを見ている人なら裏事情くらい考えているとは思いますが、さて、ここまで見てきてどうでしょうかね。ぼくたちはアニメと対等につきあえているのでしょうか。
次もまた考えます。
今では普通になったコンテンツ運用とかビジネスとかの話。私はその世界に大学二年のとき足を突っ込みました。当時はまだコンテンツ運用とかの概念が世間的に一般的ではなくて、ビジネスも手法として確立していませんでした。
で、なぜそこに興味が向いたかというと、いつの時代からかヨーロッパから持ち込まれ、便利なものとして定着していた「作品」という概念が、普遍的なものでないことに気付いたからです。
日本で最初に、体制を持ってその概念を覆したのがポケモンでした。ポケモンにはゲームがある、アニメがある、映画がある、マンガもある、カードゲームもある、他数え切れないくらい色んなものが派生しておりますが、それは決して単純な「ゲームのアニメ化、それに伴う人気の上昇と商品展開」ではありませんでした。当初から計画的に版権窓口が一本化された、個々のメディアの集合体だったのです。つまり、ゲームがすべてじゃない。アニメがすべてじゃない。それらは「ポケモン」という世界観を形成し、理解するためのひとつのメディア媒体で、どれかをみれば世界が理解できるというものではなく、いろんなポケモンメディアに触れて初めてその世界観を理解できるというものでした。
従来の作品がそれをみれば理解できる「閉じられた」ものならば、ポケモンは他のメディアと相互関係のある「開かれた」メディアでした。そして開かれたポケモンメディア群をひとつの版権窓口で統括し、管理しています。もちろん、ポケモンは最初からそうであったわけではありません。しかし、そのように管理されるようになったとき、閉じられた作品たちを個々で扱ってきた文学という学問は、大きな壁にぶつかったはずです。
確かに、ポケモンの映画は単品の映像作品として学問することができます。しかし、そこだけ見ていてもポケモン世界は見えないわけで、映像を理解するためにはほかのポケモンメディアが必要になってしまう、そんなものが登場しました。しかもそれは作品を見る学問の世界から発生したのではなく、発達した情報通信技術とそれを基盤にしたビジネスの仕組みがもたらしたものでした。
さあ、技術と社会がもたらしたこの変革を、文学部ではどう対処して行ったらいいでしょうか。文学部が普遍的と信じてきた作品の概念は、今後鑑賞学の世界でどう変わっていくのか。
とまあ、こういうことを文学部で追求していたら、追い出されました。例にとったのはポケモンですが、実際の研究ではポケモンをきっかけに、そこから掘り下げされた話をしていたわけで、結局のところ誰も私の話を理解してくれませんでした。作品見たい人達に、人がモノを買うときの意思決定方法を、情報の流れから理解するとか、情報通信とはいかなるもので、何をするのかとか、関係ないわけですからね。でも、時代の流れは旧来の概念を変えていきます。無視していれば、取り残されて象牙の塔にこもることになるでしょう。それでも相手にしてもらえないんですね。実際相手にしなくても、やっていけるのですから。
だから私は文学部が嫌いです。新しい世界を理解しようとしていた人間を認めつつも、結局追い出したから。誰も私の話にまともに耳を貸してくれなかったから。そのくせ卒業から5年たったころ、私の言っていたことをやるような学部を設立しました。遅いんですよ。内容もまだまだですけどね。
でも、たった二人だけ、同じ演劇映像専修の中に私の考えを理解してくれる人がいました。今思えばいろいろ準備しておいて、卒業したときそいつと結婚すればよかったんだとかはどうでもいいや。うーん、人間って大切なときに気付かないものなのよね。
と、こんな話はおいておき、ポケモンのコンテンツ運用を皮切りに、今日ではコンテンツ運用体制が確立、発展し、ひとつの原作でも統括的に管理されるようになりました。さっきアニメに出てきたモノが中間のCMで新商品として流れるというのは、すでに当たり前のことになっています。これはちゃんとしたスポンサー同士の結託がなければ不可能なことです。
それじゃあ、最近のアニメはどうして作られるんでしょうかね。ここまできてまさか「人気があるから」とか考えますか。そうじゃない、確かに人気のある原作をアニメ化すればリスクは低いけれど、そうじゃなくって、最初からこけない体制でアニメを作り、原作や他メディアでの展開も含めて、計画的に商品展開を行うんです。だから、原作マンガが4巻ぐらいしか出てないのにアニメ化とかやっちゃうわけです。
電撃なんとかとかはすごいですね、各所のイベントに半年前からデモ映像を流し、原作や他の電撃シリーズなんかが紹介されている冊子を配るとか、ポスターを作って配るとか、前準備に念入り。アニメ公開前からWebを用意し、原作にはアニメ化決定の帯を付け、書店でも目立つようにしてもらい、DVD化と発売日程は初巻ぐらいは決まっている。OPやEDの予定もどこぞの適当な歌手を選んで当てず、声優に歌わせてCDとアニメが同時リリースぐらい。
最初にこれだけやるのは、アニメ化前に原作に手をつけさせるのが目的だと思います。アニメをやると知名度はぐっと上がる。でも、アニメの映像そのものは、最初にテレビで流してしまうのだから基本無料。DVDやら有料配信やらを含めても、収益はものすごく大きいかといえば、本当に大当たりしたものを除けば、さほど収益にはならないでしょう。
そう考えると、アニメ化の利益はどこにあるのでしょうか。やっぱり、原作を売るための宣伝費と考えるのが妥当ですね。アニメが終わってしまえば、やはり関連商品は第一線から引いてしまいますから、そのとき客が引いてしまうのなら、原作にとって致命的ダメージとなります。昔はそれがまかり通っていたのですが、それでは次々と作品を消耗していくことになり、限りある原作を有効活用できません。なので、例えばひとつの出版社が抱えている原作たちを運用できる資産と考え、資産を守りつつ利益を向上させようと考えるならば、宣伝が第一です。その宣伝にアニメを使うと。しかしアニメは終わったときの収束が大きいから、終わる前に原作への注目を大きく引いておく、こんな感じじゃないですかね。
もちろん、おもちゃを売るためのアニメとか、世の中いろんなタイプがありますけれど、特に深夜帯やローカル局中心に展開するアニメはこういう系列が多いでしょう。
アニメを見ている人なら裏事情くらい考えているとは思いますが、さて、ここまで見てきてどうでしょうかね。ぼくたちはアニメと対等につきあえているのでしょうか。
次もまた考えます。
選べるという能力 ― 2010/09/02 23:35
アニメの本数が増えるということは放映枠が増えるということですが、どこに増えていったかというと、深夜帯やローカル局でした。また原作への顧客入れ込みを目的としたアニメは、特にこの時間に増えていきました。
ここで今日のアニメ制作状況に目を向けますと、番組数が増えていながら、アニメは巨大な雇用を生み出しましたかね。制作者の待遇はよくなりましたかね。筋によると、一本あたりの制作スケジュールが短くなり、結果的に海外での制作も増え、仕事がきつくなっただけと言います。
確かに、コンテンツ運用が発達したおかげで、原作を消耗することなくアニメを作っていく体制が整ってきました。が、すでに上げたとおり、アニメはそんなに儲かりません。当然、制作費は抑えられますので、制作会社は安い生産コストでできるだけ本数を抱えるという事態に陥ります。つまり、原作を持っているほうは強いけど、原作を持っていない方はスケジュールが厳しくなるだけです。じゃあ、アニメ原作でやっていけばいいということになりますが、それを当てるためには制作費用を取り戻せる確固たるメディア展開が必要となり、高いリスクを伴います。一方で、原作は自分たちにありますから、回収できるものはすべて自分たちに戻るので、収入はよくなります。高リスクな賭けです。
アニメが増える一方で、制作側は潤うことなく、原作側が儲かるように市場が動く。原作を消耗しないやり方は、一見美しいようで、影ではしわ寄せを生んでいました。そして視聴者は、この上でアニメを見ることになるのです。
見る側は、どれだけアニメを大切に見ているでしょうか。私はもうアニメを見ていませんが、見ているころは、ただなんとなく惰性で見ているものもあれば、映像から音楽まですべてに気を使ってみているものもありました。ただ、本数をこなせないので、見るものは「関連するCDを買ってもいい」というのが大きな基準でした。だから、見てきたアニメは関連する何かしらのCDがあります。「シュガシュガルーン」がすごく好きで、ドラマCD買い揃えてポストカード当てました。今でも部屋に飾ってあります。大人しか買わないようなイメージCDも買いました。
正直なところ、アニメの本数が増えすぎて見ていくのが面倒になり、自分の毛色に合いそうなものを最初に選び、見始めて違和感があれば見るのをやめて、本当に見たいもの音楽ごと摂取するスタイルに安定していきました。アニメが終わっても音楽やドラマCDが残るので、それと放映終了後も付き合うことになります。しかし、原作ありきのものでも原作に行くことはありません。なぜなら、マンガや小説を普段から読まないからです。でも、原作だけが作品のすべてではありませんから、放送が終わっても、長く付き合っていくことは可能です。好きと言えるものはやっぱり好きなのです。
自分で見たいものを選び、それと付き合っていけるかを考えないと、きりなくやってくる新しい番組に流され、見た結果中途半端なところでアニメが終わり、原作に行くという、ただの相手の思うツボになってしまうでしょう。そうして長く原作を愛していけるならいいですが、飽きてしまってすぐポイとなると、結果的にアニメは消耗品にしかなりません。放送終了がその人の中のその作品に対する終末点なら、アニメのサイクルが短くなっているこの現状では、アニメを消耗しているに過ぎません。
供給過剰であるからこそ、自分の付き合える作品をしっかり見定める必要があるのではないでしょうか。それができなければ、アニメを右から左に流しているだけで、その人の中には何も残らないでしょう。市場の流れは常に前向きですから、放送終了すれば原作を残して撤退してきます。それにあわせていたら、一生終わることのない消費の連鎖に巻かれます。それが今風のアニメとの付き合い方だとは到底思えません。
アニメの話はこれにて終わりです。しかし、数多のものから自分の付き合えるものをしっかり選ぶというのは、アニメに限らず重要なことです。みんなが見ているから見る、ではなくて、自分が見たいから見る。テレビでいいと言っていたからいいと思うではなく、自分自身で確かめて判断する。価値の判断は、常に自分にあることを忘れてはいけません。
ここで今日のアニメ制作状況に目を向けますと、番組数が増えていながら、アニメは巨大な雇用を生み出しましたかね。制作者の待遇はよくなりましたかね。筋によると、一本あたりの制作スケジュールが短くなり、結果的に海外での制作も増え、仕事がきつくなっただけと言います。
確かに、コンテンツ運用が発達したおかげで、原作を消耗することなくアニメを作っていく体制が整ってきました。が、すでに上げたとおり、アニメはそんなに儲かりません。当然、制作費は抑えられますので、制作会社は安い生産コストでできるだけ本数を抱えるという事態に陥ります。つまり、原作を持っているほうは強いけど、原作を持っていない方はスケジュールが厳しくなるだけです。じゃあ、アニメ原作でやっていけばいいということになりますが、それを当てるためには制作費用を取り戻せる確固たるメディア展開が必要となり、高いリスクを伴います。一方で、原作は自分たちにありますから、回収できるものはすべて自分たちに戻るので、収入はよくなります。高リスクな賭けです。
アニメが増える一方で、制作側は潤うことなく、原作側が儲かるように市場が動く。原作を消耗しないやり方は、一見美しいようで、影ではしわ寄せを生んでいました。そして視聴者は、この上でアニメを見ることになるのです。
見る側は、どれだけアニメを大切に見ているでしょうか。私はもうアニメを見ていませんが、見ているころは、ただなんとなく惰性で見ているものもあれば、映像から音楽まですべてに気を使ってみているものもありました。ただ、本数をこなせないので、見るものは「関連するCDを買ってもいい」というのが大きな基準でした。だから、見てきたアニメは関連する何かしらのCDがあります。「シュガシュガルーン」がすごく好きで、ドラマCD買い揃えてポストカード当てました。今でも部屋に飾ってあります。大人しか買わないようなイメージCDも買いました。
正直なところ、アニメの本数が増えすぎて見ていくのが面倒になり、自分の毛色に合いそうなものを最初に選び、見始めて違和感があれば見るのをやめて、本当に見たいもの音楽ごと摂取するスタイルに安定していきました。アニメが終わっても音楽やドラマCDが残るので、それと放映終了後も付き合うことになります。しかし、原作ありきのものでも原作に行くことはありません。なぜなら、マンガや小説を普段から読まないからです。でも、原作だけが作品のすべてではありませんから、放送が終わっても、長く付き合っていくことは可能です。好きと言えるものはやっぱり好きなのです。
自分で見たいものを選び、それと付き合っていけるかを考えないと、きりなくやってくる新しい番組に流され、見た結果中途半端なところでアニメが終わり、原作に行くという、ただの相手の思うツボになってしまうでしょう。そうして長く原作を愛していけるならいいですが、飽きてしまってすぐポイとなると、結果的にアニメは消耗品にしかなりません。放送終了がその人の中のその作品に対する終末点なら、アニメのサイクルが短くなっているこの現状では、アニメを消耗しているに過ぎません。
供給過剰であるからこそ、自分の付き合える作品をしっかり見定める必要があるのではないでしょうか。それができなければ、アニメを右から左に流しているだけで、その人の中には何も残らないでしょう。市場の流れは常に前向きですから、放送終了すれば原作を残して撤退してきます。それにあわせていたら、一生終わることのない消費の連鎖に巻かれます。それが今風のアニメとの付き合い方だとは到底思えません。
アニメの話はこれにて終わりです。しかし、数多のものから自分の付き合えるものをしっかり選ぶというのは、アニメに限らず重要なことです。みんなが見ているから見る、ではなくて、自分が見たいから見る。テレビでいいと言っていたからいいと思うではなく、自分自身で確かめて判断する。価値の判断は、常に自分にあることを忘れてはいけません。
今日この頃つまり近況 ― 2010/09/03 22:57
適当に何か書いているより、まじめに何か考えた方が内容をまとめやすいことに気付いた今日この頃です。近況報告 !
Y-Sub千葉店のコンテが終わりました。上杉謙信とピンキーで参加しましたが、上杉謙信なかなか好評でした。ピンキーは、しょせん野郎どもに少女の夢はわからんよということで、ありがちな得票数でしたね。まあ、それでもちゃんと締め切りどおりに仕上げて出したことに意味があります。やれば残る。やらなきゃ何も残らない、これですよ。上杉謙信が回収中に倒れましたので、修理して持ち主に戻す予定です。
と、回収には昨日行ってきましたが、風邪をひいて以来、完全に治ったような気がしてないので、気分を変えるために行ってきました。実は、せきがまだ完全におさまらないので、何か気分的につっかかります。おまけに風邪の時にのどが部分的に炎症を起こしてくれて、まだ完治していません。一回消毒してだいぶよくなりましたが、あともう少しかかりそうです。ああ、早く脱却したいわ。
某塗り絵コンテは何事もなく終わりました。てか、入賞作品があまりに普通過ぎたので、そんなら公募するなよって気分になりました。個性的なのが欲しかったんじゃないのか・・・。
あとは、サンダル洗ったくらい ? いやね、この季節は暑いので出かけるときサンダルを履くのですよ。もちろん、つっかけではありません。車の運転ができるれっきとしたサンダルです。ところが、汗をけっこうかきますから、2、3回履くとやっぱり臭う・・・。ので、臭いを感じるようになったら洗うと。大切ですね、臭わない足。
その他、佐倉・城下町400年記念事業に協賛しようと思いまして、リンクバナーを設置しました。ご当地キャラがちょーかわいい。カムロちゃん。 カムロちゃんのフィギュアとか作れないか画策しております。この事業は8年間やってますから、あせる必要はありません。
あ、なんかどうでもいい内容になってしまいました。それでは、ちかいうちにまた面白いネタを入れましょう。立体制作はどうなっているか ? 当日版権申請が近いので、そのとき写真とか撮るからいいなとか思っています。作業は毎日やってますよ、もうおかしいくらい。
Y-Sub千葉店のコンテが終わりました。上杉謙信とピンキーで参加しましたが、上杉謙信なかなか好評でした。ピンキーは、しょせん野郎どもに少女の夢はわからんよということで、ありがちな得票数でしたね。まあ、それでもちゃんと締め切りどおりに仕上げて出したことに意味があります。やれば残る。やらなきゃ何も残らない、これですよ。上杉謙信が回収中に倒れましたので、修理して持ち主に戻す予定です。
と、回収には昨日行ってきましたが、風邪をひいて以来、完全に治ったような気がしてないので、気分を変えるために行ってきました。実は、せきがまだ完全におさまらないので、何か気分的につっかかります。おまけに風邪の時にのどが部分的に炎症を起こしてくれて、まだ完治していません。一回消毒してだいぶよくなりましたが、あともう少しかかりそうです。ああ、早く脱却したいわ。
某塗り絵コンテは何事もなく終わりました。てか、入賞作品があまりに普通過ぎたので、そんなら公募するなよって気分になりました。個性的なのが欲しかったんじゃないのか・・・。
あとは、サンダル洗ったくらい ? いやね、この季節は暑いので出かけるときサンダルを履くのですよ。もちろん、つっかけではありません。車の運転ができるれっきとしたサンダルです。ところが、汗をけっこうかきますから、2、3回履くとやっぱり臭う・・・。ので、臭いを感じるようになったら洗うと。大切ですね、臭わない足。
その他、佐倉・城下町400年記念事業に協賛しようと思いまして、リンクバナーを設置しました。ご当地キャラがちょーかわいい。カムロちゃん。 カムロちゃんのフィギュアとか作れないか画策しております。この事業は8年間やってますから、あせる必要はありません。
あ、なんかどうでもいい内容になってしまいました。それでは、ちかいうちにまた面白いネタを入れましょう。立体制作はどうなっているか ? 当日版権申請が近いので、そのとき写真とか撮るからいいなとか思っています。作業は毎日やってますよ、もうおかしいくらい。
楽しい食事 ― 2010/09/04 23:55
帰りが遅くて0時まわりましたが、こういう場合でも時間を戻して無理やり前日に更新したように合わせます。
どうもいろはを作っていても一体感が出ないし、なかなかうまく作れないし、やる以上はこれ以上今の自分では無理だってところまで作りたいのですが、独特の体つきを理解し切れていません。とりあえず絵を描きながら感覚をつかんではいますが、どうしても何かが違うのです。それに、私がいろはを作っていること自体なんか不思議で仕方ありません。直球過ぎるし、過去すでにいいものも出ているし、あえてこの場で挑戦できるほど自分は育っていないのですが、なぜか作っているという感じ。じゃあやめるかと言われて止められないので、素直に作りますけどね。
本当は写真とか載せていろいろやりたかったのですが、帰りが遅くなったので今日はやりません。変わりにちとした小ネタでも。
皆さんは誰かと食事に行く場合、どうしますか。私はいつも行く店が決まっていて、一人でも行くことがあります。某家族レストランで値段も安いのですが、私にはそれでも十分いい食事だと感じます。それはね、たまにはおしゃれなお店で食べたいときもあります。でも、自分にとってよい食事というのは、ゆっくり人と話をしながら充実した時間が持てること、ひとりでも、物思いや考え事にふけったり、自分の時間を過ごせることが大切なんです。だから、安い家族レストランでも、そこにのみほーがついていて、落ち着いた時間をすごせれば、いい店でいいものを食べなくても十分幸せになります。
こうして多くの土日は友人と共に夜食事に出たりしますが、たまに帰りが遅くなる日があるのです。今日みたいに。それは、帰ってくると重たい現実が待っているときなんかに起こります。心を洗って幸せな気分でずっといたいものですが、それは明日への英気を養うことなんですね。私がたとえ病身でも自分らしく充実していると思えるのは、こんな小さなことが支えだったりします。
楽しい食事で心も充実、のみほーは不可欠。もちろん、アルコールではありませんよ。安い幸せでしょ ? でもね、自分を簡単に幸せにできる方法は、知っておいて損しませんね。
どうもいろはを作っていても一体感が出ないし、なかなかうまく作れないし、やる以上はこれ以上今の自分では無理だってところまで作りたいのですが、独特の体つきを理解し切れていません。とりあえず絵を描きながら感覚をつかんではいますが、どうしても何かが違うのです。それに、私がいろはを作っていること自体なんか不思議で仕方ありません。直球過ぎるし、過去すでにいいものも出ているし、あえてこの場で挑戦できるほど自分は育っていないのですが、なぜか作っているという感じ。じゃあやめるかと言われて止められないので、素直に作りますけどね。
本当は写真とか載せていろいろやりたかったのですが、帰りが遅くなったので今日はやりません。変わりにちとした小ネタでも。
皆さんは誰かと食事に行く場合、どうしますか。私はいつも行く店が決まっていて、一人でも行くことがあります。某家族レストランで値段も安いのですが、私にはそれでも十分いい食事だと感じます。それはね、たまにはおしゃれなお店で食べたいときもあります。でも、自分にとってよい食事というのは、ゆっくり人と話をしながら充実した時間が持てること、ひとりでも、物思いや考え事にふけったり、自分の時間を過ごせることが大切なんです。だから、安い家族レストランでも、そこにのみほーがついていて、落ち着いた時間をすごせれば、いい店でいいものを食べなくても十分幸せになります。
こうして多くの土日は友人と共に夜食事に出たりしますが、たまに帰りが遅くなる日があるのです。今日みたいに。それは、帰ってくると重たい現実が待っているときなんかに起こります。心を洗って幸せな気分でずっといたいものですが、それは明日への英気を養うことなんですね。私がたとえ病身でも自分らしく充実していると思えるのは、こんな小さなことが支えだったりします。
楽しい食事で心も充実、のみほーは不可欠。もちろん、アルコールではありませんよ。安い幸せでしょ ? でもね、自分を簡単に幸せにできる方法は、知っておいて損しませんね。

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