仮の境界線 ― 2013/08/02 22:19
帰ってきてふと、何気に疲れていると気付いた。
あれから50日、50日ぴったり。我らは宇都宮へと向かった。
千葉より7名、車二台で宇都宮向かい、時間を合わせなくとも偶然我らは宇都宮の市営霊園にて宇都宮からの3名と合流した。
私が一人で病院にいたおじさんへ会いに行ったとき、そういや宇都宮の墓参りも行ってないし、行かないとな~なんて、おじさんが話していた。祖母が脳梗塞と認知症になってからというもの、祖母の長旅への負担は大きく、祖父の墓参りにいくことができなくなっていた。それまでは毎年欠かすことなく行っていたのだ。私もそれは気になっていて、この際だから一人旅も兼ねて宇都宮にでも行ってみようかとも考えていた。
そして私がこうして宇都宮に行ったとき、それは墓参りではなく、墓入れになってしまった。墓参りを心配していた人間を墓に入れることになってしまった。祖母の介護に尽力していた人間が、被介護者より先に逝き、墓参りを気にしていた同じ人間は参られる立場になった。
3月から始まった入院、それから先の治療ができる病院探しと更なる入院。一方で祖母の介護は施設への入所を余儀なくされ、施設を探しつつ介護しつつ、二件の空き家の手入れ、あらゆる書類の手続き、終わればまた病院へおじさんを見に行く。この状態だとあと一年が限界と言われ、先の見えない治療とあまりに厳しい突然の宣告に、我々はわずかな希望のあることを信じ、祖母の介護とその息子、つまりは私の母の弟であり、私にとってはおじさんの看病をみんなで力を合わせてやってきた。
でも、おじさんは結局、6月の14日に逝ってしまった。何もかも突然で、病院で倒れたその日、夏まで持たないと言われ、その次の日、なすすべなくあと一週間と言われた。そしてその二日後にはもう戻ってこなかった。ずっと私を実の子のように大切にしてくれて、こと祖母の介護が始まった二年は、毎日声を聞かない日はなかった。離れて住んでいるだけで、実質は家族だった。私の大学の入学式にも頼まないのに来てくれたのはすごくうれしかった。あげればきりがないくらい、ずっとずっと一緒だった。旅行も行った。二人で模型店に行くくらい模型が好きだった。
天命には逆らえぬということか。冷静に考えれば、肝臓が悪くなって入院し、出てくるときには、その肝臓ではあと10年生きられないと言われていた人間が、20年生きて、昨年糖尿病で入院したのは、その肝臓の限界だったことは間違いないだろう。肝性脳症を起こすというのは、肝機能がすでに末期であるということらしい。そして異常な腹水、肝臓癌、運の悪さか、末期がんでもないのに、肝臓表面の癌が破裂。
そんな中でも、一見悪いように思えて、実は幸運をたくさん引いているからこうして生きてこられたのだと思う。本当に何もかもツキがないなら、最初に肝臓で入院したときとっくに死んでいた。あのとき、血を吐いて倒れた遠い昔の日、もうだめかもしれませんと言われても、何とか一命を取りとめ、10年の宣言を乗り越えたんだ。死んでよかったことはないし、もっと長く生きてほしいと思った。でも、それでも、悪い中でも100%の幸運を引いてきたと私は信じて疑わない。
昨日寝る前、骨壷の祭壇の景色もこれが見納めかと思い、ふと見に行ったとき、何となく、明日はよろしく頼むなって、言われた気がした。ちゃんとやって帰ってきたぜ。でも宇都宮の市営霊園は、急で置き場がないゆえの仮の埋葬で、すべての準備が整ったら四街道に祖父と一緒に新しい墓地へ入ってもらうことになっている。生前、私を息子のようにしてくれたなら、私は親と思ってできることはやる。死んだ人間のためにできることは、あとはもう墓に入れるくらいしかない。生きている人間は、死者を尊び、その思いを背負い、生きている人間が幸せに歩けるよう、生きることが仕事だ。寂しくても悲しくても、それは越えていけるもの。共に生きた時間を誇りに思えることが、何にも替え難い幸せなんさ。
また年内に墓を再び開けてこっちに持ってくれば、そこでも落ち着くでしょう。そのときはちゃんと神主さんを呼んで儀式もやりますわ。でもひとまず脱力できる。ワンフェスも終わった、境界線だった五十日祭も終わった。脱力しつつ、創作活動にいそしむぜ !! こんなくさくさしたことを書いているようで、あんまくさくさしてない。ちょっとは疲れたけどね。
ところでなぜ葬儀を神道でやるかというと、祖父の家は神社だったからです。祖父も神主の資格を持っていましたが、6人きょうだいがいて誰も神社を継がなかったため、神社は廃業して売却されました。小さい宗教法人はあんまり儲からないらしいです。神社ってひとつの集合体のように見えて、宗教のようで宗派みたいのがよくわからないようでいて、実はちゃんと宗教として中身が分かれているんですね。すると神主の場合、亡くなると名前に基本となる神道と神主としての位が入ります。この位は宗教に関係なく決まっているようです。私も詳しくはわかりません。私の祖父は昔、私に所属している宗教の記念品をくれました。形見として大事にとってありますが、よく考えると、神主の仕事もしてないのに、ちゃんと本家から記念品がもらえるって、なんかそこだまされている気がする・・・。
神社は廃業しているため、祖父のときから葬儀やその後のことは茨城にある大生郷天満宮に頼んでいます。葬儀屋だと普通はそこの葬儀屋と提携している神社や神主に頼むのですが、うちは指定神社があり、指定されたのは初めてと言われました。誰も神社をしていなくても、何となくそういうものは引き継がれているようです。
あれから50日、50日ぴったり。我らは宇都宮へと向かった。

私が一人で病院にいたおじさんへ会いに行ったとき、そういや宇都宮の墓参りも行ってないし、行かないとな~なんて、おじさんが話していた。祖母が脳梗塞と認知症になってからというもの、祖母の長旅への負担は大きく、祖父の墓参りにいくことができなくなっていた。それまでは毎年欠かすことなく行っていたのだ。私もそれは気になっていて、この際だから一人旅も兼ねて宇都宮にでも行ってみようかとも考えていた。
そして私がこうして宇都宮に行ったとき、それは墓参りではなく、墓入れになってしまった。墓参りを心配していた人間を墓に入れることになってしまった。祖母の介護に尽力していた人間が、被介護者より先に逝き、墓参りを気にしていた同じ人間は参られる立場になった。
3月から始まった入院、それから先の治療ができる病院探しと更なる入院。一方で祖母の介護は施設への入所を余儀なくされ、施設を探しつつ介護しつつ、二件の空き家の手入れ、あらゆる書類の手続き、終わればまた病院へおじさんを見に行く。この状態だとあと一年が限界と言われ、先の見えない治療とあまりに厳しい突然の宣告に、我々はわずかな希望のあることを信じ、祖母の介護とその息子、つまりは私の母の弟であり、私にとってはおじさんの看病をみんなで力を合わせてやってきた。
でも、おじさんは結局、6月の14日に逝ってしまった。何もかも突然で、病院で倒れたその日、夏まで持たないと言われ、その次の日、なすすべなくあと一週間と言われた。そしてその二日後にはもう戻ってこなかった。ずっと私を実の子のように大切にしてくれて、こと祖母の介護が始まった二年は、毎日声を聞かない日はなかった。離れて住んでいるだけで、実質は家族だった。私の大学の入学式にも頼まないのに来てくれたのはすごくうれしかった。あげればきりがないくらい、ずっとずっと一緒だった。旅行も行った。二人で模型店に行くくらい模型が好きだった。
天命には逆らえぬということか。冷静に考えれば、肝臓が悪くなって入院し、出てくるときには、その肝臓ではあと10年生きられないと言われていた人間が、20年生きて、昨年糖尿病で入院したのは、その肝臓の限界だったことは間違いないだろう。肝性脳症を起こすというのは、肝機能がすでに末期であるということらしい。そして異常な腹水、肝臓癌、運の悪さか、末期がんでもないのに、肝臓表面の癌が破裂。
そんな中でも、一見悪いように思えて、実は幸運をたくさん引いているからこうして生きてこられたのだと思う。本当に何もかもツキがないなら、最初に肝臓で入院したときとっくに死んでいた。あのとき、血を吐いて倒れた遠い昔の日、もうだめかもしれませんと言われても、何とか一命を取りとめ、10年の宣言を乗り越えたんだ。死んでよかったことはないし、もっと長く生きてほしいと思った。でも、それでも、悪い中でも100%の幸運を引いてきたと私は信じて疑わない。
昨日寝る前、骨壷の祭壇の景色もこれが見納めかと思い、ふと見に行ったとき、何となく、明日はよろしく頼むなって、言われた気がした。ちゃんとやって帰ってきたぜ。でも宇都宮の市営霊園は、急で置き場がないゆえの仮の埋葬で、すべての準備が整ったら四街道に祖父と一緒に新しい墓地へ入ってもらうことになっている。生前、私を息子のようにしてくれたなら、私は親と思ってできることはやる。死んだ人間のためにできることは、あとはもう墓に入れるくらいしかない。生きている人間は、死者を尊び、その思いを背負い、生きている人間が幸せに歩けるよう、生きることが仕事だ。寂しくても悲しくても、それは越えていけるもの。共に生きた時間を誇りに思えることが、何にも替え難い幸せなんさ。
また年内に墓を再び開けてこっちに持ってくれば、そこでも落ち着くでしょう。そのときはちゃんと神主さんを呼んで儀式もやりますわ。でもひとまず脱力できる。ワンフェスも終わった、境界線だった五十日祭も終わった。脱力しつつ、創作活動にいそしむぜ !! こんなくさくさしたことを書いているようで、あんまくさくさしてない。ちょっとは疲れたけどね。
ところでなぜ葬儀を神道でやるかというと、祖父の家は神社だったからです。祖父も神主の資格を持っていましたが、6人きょうだいがいて誰も神社を継がなかったため、神社は廃業して売却されました。小さい宗教法人はあんまり儲からないらしいです。神社ってひとつの集合体のように見えて、宗教のようで宗派みたいのがよくわからないようでいて、実はちゃんと宗教として中身が分かれているんですね。すると神主の場合、亡くなると名前に基本となる神道と神主としての位が入ります。この位は宗教に関係なく決まっているようです。私も詳しくはわかりません。私の祖父は昔、私に所属している宗教の記念品をくれました。形見として大事にとってありますが、よく考えると、神主の仕事もしてないのに、ちゃんと本家から記念品がもらえるって、なんかそこだまされている気がする・・・。
神社は廃業しているため、祖父のときから葬儀やその後のことは茨城にある大生郷天満宮に頼んでいます。葬儀屋だと普通はそこの葬儀屋と提携している神社や神主に頼むのですが、うちは指定神社があり、指定されたのは初めてと言われました。誰も神社をしていなくても、何となくそういうものは引き継がれているようです。
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