なぜ小物作りになったか ― 2020/02/10 23:21
フェスが終わると、一日はゆっくりします。今回は荷物も少なく、早速車から荷物を降ろし、その先の片づけは後回し。レポを書くほど考えることもなく、何となく、今に至る活動を振り返ることにしました。そもそも私は、どうしてこんなことを始めたのか。ただの哀愁話ですので、特に意味はありません。
気が付けば、こんなことを始めて、来年の夏で10年です。ワンフェスでの規模拡大、委託の規模拡大も進め、常に模索状態が続いています。
私が大学三年くらいから、千葉のY-Subへよく行くようになりました。良質なカプセルフィギュアが量産され始めた時代で、フィギュア=ガレージキットの時代が少しずつ動き始めました。そんなフィギュアをカプセル販売マシンで買いに行き始めたのが、フィギュアとの出会いでした。それを目的に、Y-Subへ行き、店内もいろいろ見ていました。
ある時、TAMIYAから五代目NISSAN Fairlady Zが出ると、「車のプラモを作ってみよう」とのお触書があり、缶スプレーでボディを塗装し、細かい部分を筆塗りすれば、簡単に作れます、という調子のいい言葉に乗せられて、何となく興味を持って作ることにしました。
実際そんな簡単なものではなくて、完成したものはお粗末なレベルでした。しかし失敗した部分をもっと丁寧に仕上げてみようと、再び挑戦しました。少しだけよくなりました。それが楽しくなり、次々と車のプラモを作るようになります。内装が黒中心で塗装できるものを選んで買い、内装の大部分もスプレー缶で塗ると、時短できて仕上がりもよくなります。エアブラシまで興味が行くのに、そう長くかかりませんでした。
そのうちキャラクターモデルにも興味を持ち始め、電撃ホビーを買って、記事を読みながら技術を学びつつ、実践することにしました。失敗と成功の繰り返しです。2007年のこと、ドイツにいるドイツ人の友人から、Skypeで、フィギュアに興味があって、Wonder Festivalへ行きたいけど、日本まで行けないから、私に行ってみてもらえないかと、誘いを受けました。ワンフェスのことは私も知っていました。当日版権を取って、フィギュアを売るイベントです。
私は武装神姫に手を出し始めたころで、プラモも趣味となり、ワンフェスへ友人のために行くことにしました。それが私にとって初のワンフェスでした。電撃ホビーで作例として出ていたバイクが生で会場に展示してあり、思わず話しかけてしまったことや、せっかくだからと自分でキットを買ったり、面白い経験がたくさんできました。
ちなみに、そのころのワンフェスは並ばずに入れる、まだまだ熟練向けのイベントでした。以来、毎回行くようになり、完成品がブームとなってくると、大勢の人が来るイベントになっていました。でも、自分で原型を作ろうと考えたことはなく、安いプラモを買ったり、面白そうなGKを買っていました。
しかし、自分の手で自由に模型が作れるようになってくると、そのうち、市販されていないけど欲しいものが、0から作れるのではないかと思えるようになってきました。この方向は二つに向かいました。ひとつは、中学時代から愛して止まないゲームのThunder Force IVのRYNEXを立体化したいこと。RYNEXはぼちぼちワンフェスで立体化されていたようですが、よりゲームの世界観に基づいた、絵に近いものではなく、設定に近いタイプのモデルを作りたいと思いました。
もうひとつは、すでに日常の一部と化していた、武装神姫のために、何かアイテムを作ることでした。当初はオリジナルではなく、神姫NETに登場するアイテムを実際に作ってみることを考え、それっぽく、ちゃぶ台を作りました。段ボールアーマーも実は作りました。
神姫用のアイテムは、木をいじることが好きだったこともあり、すぐに作れたのですが、RYNEXはそう簡単にもいきません。とにかく、フィギュアの原型を作り、製作に慣れることが大切と、版権申請をして、フィギュア製作とイベント参加に乗り出すことにしました。通称、黒歴史の始まりです。
ちゃぶ台も、自分が欲しいなら、他の人も欲しいだろうと、フィギュアと同時に売りました。結果は、フィギュアは売れないのに、ちゃぶ台は売れました。版権申請して作った段ボールアーマーも売れました。次はちゃぶ台だけでなく、ちゃぶ台セットにしました。和紙を使ったソファも作りました。フィギュアは相変わらず売れないのに、そちらばかり売れます。
2011年冬のワンフェスで、ちゃぶ台セット、みかん、せんべいも作りました。みかんは最初、ちゃぶ台セットの見た目をよくするために、何となく作ったら、本物のみかんっぽいので、量産してみました。それらのアイテムは好評で、とてもよく売れました。あと、高いと売れないと思っていたため、小物は20円でした。安さも好評でした。フィギュアはやっとひとつ売れましたが、コストがかかりすぎます。シリコンやレジン代を入れると、赤字です。それを別のもので帳消ししている状態でした。
2011年3月、あの震災により、版権申請のシステムが一時停止となりました。当初、お金がかかりすぎるフィギュアの製作は不可能と見込んで、別のゲームのメカの展示だけをするつもりだったのですが、版権申請を自分ですることになると、面倒になりました。また、展示はお金になりません。参加費用、複製材料代と金銭的な限界もあり、フィギュア製作はあきらめ、売れていた神姫用、もとい、新しい市場ができつつあった1/12用のアイテム専売に切り替えることにしました。そのため、一緒に続けてきた友人とのディーラー活動は終了し、今の量産型マンドラゴラが誕生します。衣料部も新たに作って、服への進出を図りました。いきなり服なんて作れるの ? という話ですが、うちの衣料部様は短大の服飾科を出ており、洋裁が好きで、自分で自分のものを作ってしまう人だったために、その腕を見込んででした。
神姫により1/12サイズの小物需要があることは、何より自分がよくわかっていました。自分が欲しかったからで、2010年より少し前のころは、小物のディーラーがそこそこありました。でも、どれもひとつあたりが高く、500円でケーキひと切れは普通でした。ワンフェスの参加料は高く、小物は手間もかかり、売値は高く設定されがちです。一方、ライトなフィギュアファンを開発した1/12の一般的ファンは、そんなに高いものを求めていませんでした。本格的な作りのものより、安くて手軽に遊べて、そこそこの品質があれば満足できるのです。
この需給不一致を突いてやろうと、そこそこの品質のものを安くてたくさん買えるようにすれば、小物は売れるようになる。これが量産型マンドラゴラのすべてでした。無名のディーラーが本当に売れるかは、まったくわかりませんでしたが。
反応は自分たちの予想を大きく上回り、もはや対処不能になるほど、一度に多くのお客さんが押し寄せてきました。忘れられないのが2012年の冬です。鞍替えして最初の夏は、常時5人くらいのお客さんが並んでいて、品数も少なかったため、何とかやりきりました。それを踏まえ、品数を増やし、5人くらいをさばけるよう準備をしたら、実際は10m以上の行列になってしまいました。反応がよかった、というより、自分たちの接客効率が悪かったための行列で、最後尾札をお客さんが作ってくれたり、あまりの緊迫した状況に、本気で吐きそうになりました。
まぁ、ここまで続いてしまいましたね。というより、続けざるを得なかったんです。私は2006年に、2003年には抑え込んでいたつもりの病が重症化して現れ、大学院を中退、働いていた大学図書館の仕事も退職せざるを得なくなり、働くことができませんでした。特に、今でもありますが、意識障害が当時はひどくて、治療不能なてんかんが常駐していました。専門病院にかかっても症例が過去になく、効果の認められる薬で抑えるだけでした。なぜその薬で症状が和らぐのか、実は今でもわかっていません。
加えて、緊張を抑制するする機能がほぼ働くなくなってしまったため、薬で緊張をコントロールする必要があります。人間は、気づかないうちに緊張と抑制を繰り返しています。こと、対人関係には、例え家族であろうが、使っています。緊張の上がることがあっても、自力で下げることはほとんどできず、人と接触する限り、常時強い緊張を強いるため、治療が進まないのです。結果、働くことはある程度治療が進むまであきらめていたのですが、今になっても社会性を持つことはできません。
簡単に緊張と一言にまとめていますが、わかりやすくするためで、実は、うれしい、楽しいといった感覚も、同時に不安や緊張に変化します。気持ちの問題ではなくて、そうした感覚がもたらす神経物質が異常な働きをして、正常な人なら起きない感覚を起こしてしまうものです。なので、私は大勢の人で集まるような飲み会はとことん敬遠しますし、友人付き合いも限定的でしかしません。今はネット環境すら強制的に引きはがしてしまいました。
なるべく人との接触がないような仕事をぼちぼちすることもありましたが、まぁ、何をやってもクビになりましたね。せめて生産的な趣味は持とうと、模型趣味は続けていました。そこから小物作りである程度お金が稼げるようになったので、 生活のために続けております。これも順調に回転しているわけでもなく、相変わらず闘病との狭間でやっていますが、やることもなく、お金もなく、死ぬ勇気もない時間を長く過ごしてきたことを考えると、ないよりまし程度です。
それでも、以前から比較して、これを本気でやってみようという気が強くなって、販路拡大やら、情報戦略やら、がんばっています。どうせ死んでも大して周囲が困ることもない体なら、何もかも投げ出すより、自分の打ち込めることに注力してもいいんじゃないですかね。
気が付けば、こんなことを始めて、来年の夏で10年です。ワンフェスでの規模拡大、委託の規模拡大も進め、常に模索状態が続いています。
私が大学三年くらいから、千葉のY-Subへよく行くようになりました。良質なカプセルフィギュアが量産され始めた時代で、フィギュア=ガレージキットの時代が少しずつ動き始めました。そんなフィギュアをカプセル販売マシンで買いに行き始めたのが、フィギュアとの出会いでした。それを目的に、Y-Subへ行き、店内もいろいろ見ていました。
ある時、TAMIYAから五代目NISSAN Fairlady Zが出ると、「車のプラモを作ってみよう」とのお触書があり、缶スプレーでボディを塗装し、細かい部分を筆塗りすれば、簡単に作れます、という調子のいい言葉に乗せられて、何となく興味を持って作ることにしました。
実際そんな簡単なものではなくて、完成したものはお粗末なレベルでした。しかし失敗した部分をもっと丁寧に仕上げてみようと、再び挑戦しました。少しだけよくなりました。それが楽しくなり、次々と車のプラモを作るようになります。内装が黒中心で塗装できるものを選んで買い、内装の大部分もスプレー缶で塗ると、時短できて仕上がりもよくなります。エアブラシまで興味が行くのに、そう長くかかりませんでした。
そのうちキャラクターモデルにも興味を持ち始め、電撃ホビーを買って、記事を読みながら技術を学びつつ、実践することにしました。失敗と成功の繰り返しです。2007年のこと、ドイツにいるドイツ人の友人から、Skypeで、フィギュアに興味があって、Wonder Festivalへ行きたいけど、日本まで行けないから、私に行ってみてもらえないかと、誘いを受けました。ワンフェスのことは私も知っていました。当日版権を取って、フィギュアを売るイベントです。
私は武装神姫に手を出し始めたころで、プラモも趣味となり、ワンフェスへ友人のために行くことにしました。それが私にとって初のワンフェスでした。電撃ホビーで作例として出ていたバイクが生で会場に展示してあり、思わず話しかけてしまったことや、せっかくだからと自分でキットを買ったり、面白い経験がたくさんできました。
ちなみに、そのころのワンフェスは並ばずに入れる、まだまだ熟練向けのイベントでした。以来、毎回行くようになり、完成品がブームとなってくると、大勢の人が来るイベントになっていました。でも、自分で原型を作ろうと考えたことはなく、安いプラモを買ったり、面白そうなGKを買っていました。
しかし、自分の手で自由に模型が作れるようになってくると、そのうち、市販されていないけど欲しいものが、0から作れるのではないかと思えるようになってきました。この方向は二つに向かいました。ひとつは、中学時代から愛して止まないゲームのThunder Force IVのRYNEXを立体化したいこと。RYNEXはぼちぼちワンフェスで立体化されていたようですが、よりゲームの世界観に基づいた、絵に近いものではなく、設定に近いタイプのモデルを作りたいと思いました。
もうひとつは、すでに日常の一部と化していた、武装神姫のために、何かアイテムを作ることでした。当初はオリジナルではなく、神姫NETに登場するアイテムを実際に作ってみることを考え、それっぽく、ちゃぶ台を作りました。段ボールアーマーも実は作りました。
神姫用のアイテムは、木をいじることが好きだったこともあり、すぐに作れたのですが、RYNEXはそう簡単にもいきません。とにかく、フィギュアの原型を作り、製作に慣れることが大切と、版権申請をして、フィギュア製作とイベント参加に乗り出すことにしました。通称、黒歴史の始まりです。
ちゃぶ台も、自分が欲しいなら、他の人も欲しいだろうと、フィギュアと同時に売りました。結果は、フィギュアは売れないのに、ちゃぶ台は売れました。版権申請して作った段ボールアーマーも売れました。次はちゃぶ台だけでなく、ちゃぶ台セットにしました。和紙を使ったソファも作りました。フィギュアは相変わらず売れないのに、そちらばかり売れます。
2011年冬のワンフェスで、ちゃぶ台セット、みかん、せんべいも作りました。みかんは最初、ちゃぶ台セットの見た目をよくするために、何となく作ったら、本物のみかんっぽいので、量産してみました。それらのアイテムは好評で、とてもよく売れました。あと、高いと売れないと思っていたため、小物は20円でした。安さも好評でした。フィギュアはやっとひとつ売れましたが、コストがかかりすぎます。シリコンやレジン代を入れると、赤字です。それを別のもので帳消ししている状態でした。
2011年3月、あの震災により、版権申請のシステムが一時停止となりました。当初、お金がかかりすぎるフィギュアの製作は不可能と見込んで、別のゲームのメカの展示だけをするつもりだったのですが、版権申請を自分ですることになると、面倒になりました。また、展示はお金になりません。参加費用、複製材料代と金銭的な限界もあり、フィギュア製作はあきらめ、売れていた神姫用、もとい、新しい市場ができつつあった1/12用のアイテム専売に切り替えることにしました。そのため、一緒に続けてきた友人とのディーラー活動は終了し、今の量産型マンドラゴラが誕生します。衣料部も新たに作って、服への進出を図りました。いきなり服なんて作れるの ? という話ですが、うちの衣料部様は短大の服飾科を出ており、洋裁が好きで、自分で自分のものを作ってしまう人だったために、その腕を見込んででした。
神姫により1/12サイズの小物需要があることは、何より自分がよくわかっていました。自分が欲しかったからで、2010年より少し前のころは、小物のディーラーがそこそこありました。でも、どれもひとつあたりが高く、500円でケーキひと切れは普通でした。ワンフェスの参加料は高く、小物は手間もかかり、売値は高く設定されがちです。一方、ライトなフィギュアファンを開発した1/12の一般的ファンは、そんなに高いものを求めていませんでした。本格的な作りのものより、安くて手軽に遊べて、そこそこの品質があれば満足できるのです。
この需給不一致を突いてやろうと、そこそこの品質のものを安くてたくさん買えるようにすれば、小物は売れるようになる。これが量産型マンドラゴラのすべてでした。無名のディーラーが本当に売れるかは、まったくわかりませんでしたが。
反応は自分たちの予想を大きく上回り、もはや対処不能になるほど、一度に多くのお客さんが押し寄せてきました。忘れられないのが2012年の冬です。鞍替えして最初の夏は、常時5人くらいのお客さんが並んでいて、品数も少なかったため、何とかやりきりました。それを踏まえ、品数を増やし、5人くらいをさばけるよう準備をしたら、実際は10m以上の行列になってしまいました。反応がよかった、というより、自分たちの接客効率が悪かったための行列で、最後尾札をお客さんが作ってくれたり、あまりの緊迫した状況に、本気で吐きそうになりました。
まぁ、ここまで続いてしまいましたね。というより、続けざるを得なかったんです。私は2006年に、2003年には抑え込んでいたつもりの病が重症化して現れ、大学院を中退、働いていた大学図書館の仕事も退職せざるを得なくなり、働くことができませんでした。特に、今でもありますが、意識障害が当時はひどくて、治療不能なてんかんが常駐していました。専門病院にかかっても症例が過去になく、効果の認められる薬で抑えるだけでした。なぜその薬で症状が和らぐのか、実は今でもわかっていません。
加えて、緊張を抑制するする機能がほぼ働くなくなってしまったため、薬で緊張をコントロールする必要があります。人間は、気づかないうちに緊張と抑制を繰り返しています。こと、対人関係には、例え家族であろうが、使っています。緊張の上がることがあっても、自力で下げることはほとんどできず、人と接触する限り、常時強い緊張を強いるため、治療が進まないのです。結果、働くことはある程度治療が進むまであきらめていたのですが、今になっても社会性を持つことはできません。
簡単に緊張と一言にまとめていますが、わかりやすくするためで、実は、うれしい、楽しいといった感覚も、同時に不安や緊張に変化します。気持ちの問題ではなくて、そうした感覚がもたらす神経物質が異常な働きをして、正常な人なら起きない感覚を起こしてしまうものです。なので、私は大勢の人で集まるような飲み会はとことん敬遠しますし、友人付き合いも限定的でしかしません。今はネット環境すら強制的に引きはがしてしまいました。
なるべく人との接触がないような仕事をぼちぼちすることもありましたが、まぁ、何をやってもクビになりましたね。せめて生産的な趣味は持とうと、模型趣味は続けていました。そこから小物作りである程度お金が稼げるようになったので、 生活のために続けております。これも順調に回転しているわけでもなく、相変わらず闘病との狭間でやっていますが、やることもなく、お金もなく、死ぬ勇気もない時間を長く過ごしてきたことを考えると、ないよりまし程度です。
それでも、以前から比較して、これを本気でやってみようという気が強くなって、販路拡大やら、情報戦略やら、がんばっています。どうせ死んでも大して周囲が困ることもない体なら、何もかも投げ出すより、自分の打ち込めることに注力してもいいんじゃないですかね。
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