無意味な原理的研究2019/12/10 21:08

やってしまった、DSでガルモとはいえ、目の疲労がきてしまいました。昼間にゲームのカードを切るのはやめるしかありません。気軽なゲームでも、負担はあります。以前風邪をひいたときに、一日中布団の中でガルモをやっていたことがあります。結果、過剰興奮になっていました。このゲームでも負担は0ではありません。目も疲れますよね、そりゃ。
仕方なく、なるべく本を読む時間で費やしました。しかし体調は最悪で、持久力がありません。本を読むことすらつらい。何をしていたのかの記憶すらまともに残っておらず、またまた適当なことを書きます。
クソゲークエスト増刊号5を再び見ました。これはまさに、苦痛を共感する時間なのです。クソゲークエストでゲームレビューを見ていても、クソゲーかと思わせておきながら、やってみるとそうでもないゲームがすごく多いのです。ところがこの増刊号5は極めて特殊で、本当にクソゲーしか出てこない、例外的存在で、見ているこちらもゲームのひどさに苦痛を感じます。映像としては面白いんですよ。でも、紹介されているゲームがあまりに度を外していて、いや、ひどいなこれという、クソゲーを共感できる時間でもあります。
携帯型ファミコン互換機で、そこに入っているオリジナルの103種類のゲームをレビューしていきます。一本当たりの紹介は短いですが、本数が多いために、そこそこの時間になります。この互換機は互換機としての作りもあまりよくなく、セレクトボタンがない、致命的欠点があります。いやいや、どうしてなくすのか、意味がわかりません。おそらく中華系の企業が作ったものを日本の企業が日本向けにパッケージングして売っていると思われます。コロンバスサークルの互換機はちゃんとファミコンになっていますし、ゲームサプライを作っている日本の企業が作っていますから、品質はよいと思います。中華系企業の輸入品は値段が恐ろしく安いので、うさん臭いと思ったら手を出すべきではないでしょう。
ゲーム内蔵でも、オリジナルですので、違法性はありません。たまに、かつてROM供給されていたものをそのまんま入れている機械がありますが、あれは海賊版です、ダメです。とはいえ、ゲームの一部にROM供給されていたゲームの音楽や効果音をそのまんま使っているものがあり、それはダメですよ。まぁ、些細なことで、横に流すとしましょう。
以前、コロンバスサークル製の内蔵ゲームのレビューを試みたことがあるそうですが、クソゲーが多くて断念した経緯があると聞きました。しかし、今回は別の互換機でやり通したのが増刊号5です。一部のゲームはコロンバスサークル製品にも同じものが入っていることがわかっています。
どうやってゲームが供給されているのかを考えると、おそらく中華系の会社でソフトを開発しているところがあり、そこがライセンス提供していると予想します。だから、互換機は異なる会社から出ていても、そこのソフト会社からソフトを買っているため、同じものが入っている場合があるわけです。あとは互換機メーカーの裁量で、何本入れるか決めて、選択して買っているのでしょう。もしくは、何本くらい入れたいか、ジャンル分けを指定して発注し、ソフト会社が選んでいるか。ソフト会社が選んでいるかもしれませんね。
なぜ中華系メーカーと予想するか。まず今の日本でファミコンのソフトを開発しても商売になりません。今でもファミコンに需要があるのはロシアや南米方面で、そちら相手にソフト開発をしつつ、日本にも売るならば、技術的にも中華ですよね。まぁ、中国かな。
完成したゲームを見るならば、内容はひどいものです。見ていてわかるのは、開発者にゲーム経験がないことなのです。ファミコン時代のゲームを体験している世代なら、こういう作りには絶対にしません、なぜか。こんなゲームは日本になかったから。日本では商売にならないから。今の日本人はゲーム経験が普通にあるため、こうはならないでしょう。つまり、表面上、ファミコンっぽいことを真似てお金にしようと考えているあたり、中華系の発想に感じます。
そして、並びに並んで103本も似たようなひどいゲームっぽいものを見せられていると、とても重要なことがわかってきます。まとめでイモリさんが言っていることは、できて当たり前のことを作業のようにやらされても、何の達成感もないことです。倒れているペットボトルをただ立てるだけのことを繰り返しても、何の喜びもない。でも、もし骨折していた人が治ってペットボトルを立てられるようになれば、喜びはある。ゲームの喜びとは、苦労が報われることにあると。
103本のゲームは、ただ作業のような繰り返しを何の演出もなく、ただ繰り返すのがほとんどです。まず、クリアになっても演出がない。突然暗転して STAGE 2 と表示されたかと思ったら、さっきと同じことが繰り返される。演出面は多くのものでまったくなく、例えば叩きもののゲームでも、叩いても効果音や敵がやられるとか、基本的な効果が入っておらず、知らないうちに点数だけが入っていき、視覚的にも耳にも何もわからない例が、枚挙にきりがないほどたくさんあります。
中には、風船が大量に上昇していくのに、的を合わせて割るものがありました。割っても効果音もなければ視覚効果もなく、的を合わせてボタンを押すだけで、ミスも発生しません。風船を取り逃したらミスということもなく、本当にただ作業をやるだけです。誰にでもできる単純作業です。これはゲームとはとても言えないでしょう。
さて、実はこうしたことが、とても重要な意味を持っています。私がゲームの原理的研究を無意味とする根源がここにあるのです。ゲームの原理的研究とは、ゲームはなぜ楽しいかの理由をゲームを単純化して考えるやり方です。
例えば、STGはなぜ楽しいかを考えます。連射のきかない環境で、動いている的に弾を当てようとすると、何も考えずにやっていては当たりません。弾の速さ、相手の動きを考え、狙って当てることに達成感があると考えます。よける場合、今度は弾の速度や動きを見て、考えて抜けきった時に達成感があると考えます。こうして、単純な動作から複雑な動作が生まれ、考えながら成し遂げることにゲームの楽しさがある、とするのです。
一見、すごくまともに見えます。できて当たり前のことをやらされてもうれしくないという、イモリさんの意見にも合致するように見えます。しかし、もしこれが真理なら、クソゲーは存在しないことになります。
103本のゲームの中にも、STGは存在します。連射できない環境で動く的を狙うものもあります。ところがこれがひどいクソゲーでした。なぜか。達成感がまるでないからです。でも、原理的研究では、人はこれで達成感が得られるとしています。完全な矛盾です。
結局、達成感というのは主観に過ぎません。そこにまずひとつの問題があります。次に、達成感の根源は、行いに報いがあることなのです。スコアタを例に見てみましょう。例えば、自己ベストがあるとします。今日は自己ベストを越えよう、と目標を設定します。達成できれば、報いはないように見えて、「目標→達成」という喜びが報いです。たとえ原理的にゲーム的要素があったとしても、それを24時間繰り返してもらうだけになったら、何の達成感もありません。もしあるとするなら、苦痛から解放される喜びでしょう。
つまり、達成感はゲームに内包されるものではなく、外側にあるわけです。動いている的に弾を当てることに達成感があるのは、報いがあればです。当たりそうなのに当たらない。そんな状況があれば、人は当ててやろうと考えるかもしれません。そう、ここで当ててやろうと目標を設定したとき、達成すれば喜びがあります。的が早すぎて、当たればただの運ならば、偶然だろうと喜びもしないでしょう。でも、もしそれに当てたらお金がもらえるとすれば、夢中になり、当てた時の達成感は至高かもしれません。それがただの運だったとしてもです。
原理的研究が真理ならば、この増刊号5は何なのでしょうか。この映像はすごく意味があると思います。こういうことも含めてね、いずれ原理的研究に対する批判を別冊ゲーマー魂に入れてやろうかと思っています。