学問としてのゲーム2016/11/18 23:59

みかん作りや皿塗りなど、基本的なことをやっていますが、みかんは足りるのか、穴あけ作業をしながらふと思ってしまいました。すでにあるものと足しても、もう少しあった方が余裕が生まれる数です。やったほうがいいかなと思います。皿も大量に必要なため、器一杯分をまず白の皿として塗り始めました。黒の皿は生産します、これから・・・。ちと重いなぁ・・・。あと何回やればいいんだ・・・。
それはいいとしまして、このところのどうしたもんかについては、なかなかいい答えがありません。私はゲームをもっと学問として扱いたいと思っております。ならばどうしていけばよいのか、自分ひとりの力ではどうしようもできないこともあります。研究して自己満足しているのはイヤなのです。かといえ、学会で発表する大事だけをやっているのもイヤなのです。学問は小さな課題を考えたり、時に大きな課題を考えたりします。考え方を磨き、それをどこでどう形にしていくのか。現状は行き詰まりです。
GL25で買ってきたOBS Collectionを見ました。これはリポーターが出てくる形式の自主制作番組ですが、この映像の目的の先には、貴重なものを映像として保存していくことがあります。決して面白いからやっているんじゃありません。目的意識を持ってやっているから、足も動くし、いいものができあがります。
では、学問として扱うとはどういうことでしょうか。それは、ゲームの生い立ちを見たり、社会との関係を見たり、見えていそうで当たり前の裏に隠れてしまった事実を探りあてることであり、ただの事実の記述ではなく、見えない部分に一考を加えることです。私が大学でやってきたものは演劇映像でして、この分野はエンタメから宗教行事にまで広がる分野で、人々の間に根付いています。でも、エンタメがただのエンタメでした、じゃ話にならないわけで、そこにある人の考え方、表現の可能性を見つめるのが学問でした。歌舞伎なんてえらそうにしていますが、あれは江戸時代の大衆文化でした。「伝統芸能」という枠組みに入ることで、現代劇としての機能を捨て、生き残りをはかったのが今の歌舞伎です。だから、歌舞伎の研究とは、江戸時代の大衆文化の研究なのです。
ゲームだってエンタメですが、コンピューターを普及させる役割も買っています。また、それはエンタメだから学問にならないなんてことはありません。私がやってきたことは、「崇高」なるものだけが学問になるわけではないことを学ぶ現場でした。ゲームも様々な見地から、現代の遊びとして、情報化への立役者として、社会とのつながりがあります。ゲームそのものの構成方法も、限られたコンピューター環境とは何だったのか、学ぶよい機会でしょう。
私がゲームに求めているのは、この学問の題材としての可能性であり、しかも自己満足のためにやっているのはいやなんですよね。こうなると最後はひとつ。大学でゲームを扱ってくれるところに自分から連絡を取ってみるしかありません。うーむ、対人関係か、やだな、これもまた重いな・・・。