斑鳩チェルノブ2016/05/05 23:27

世間が休みなら私も休みたいということで、少し休む日々を送っております。今日はTamへ行ってきました。買い物は決めてありましたが、他にも見ながら使えるものはないかと常に研究するのです。
珍しくゲームを買ったことが今日のニュースですかね。3DS用のDL専用ソフトで、安くていいゲームが何気にあふれている世界です。この前200円のものを買うのに1000円の前金を払っており、残り800円でゲームを足そうと思いました。まず手に入れたのがポラーラというゲームで、とてもわかりやすく説明するならば、斑鳩のドットイーターモードをチェルノブでやる、に尽きます。これ以上うまい説明はないと、自分でも確信しております。ですが、わかっている人にはこれで伝わりますが、何も知らないと何もわかりません。
強制横スクロールのアクションで、主人公ラーラは勝手に走ります。使うボタンはふたつ、ジャンプと色変えです。道中には障害があり、これは赤か青です。ラーラが同じ色をしていれば、障害をそのまま乗り切ることができます。違う色で接触するとミスです。なので、赤い障害を赤で越え、青は青で越え、ジャンプしつつ進むゲームです。
仕掛けは最初、理解できないものもありまして、わからない仕掛け相手に47回もミスしました。例えば、青にすると上に落ち、赤にすると下に落ちるなんて仕掛けもあります。非常に奥が深そうですが、動体視力の限界をいずれ感じるゲームじゃないかと、一抹の不安も覚えるのでした。

まぁ、400円だしね。

早稲田大学ツアー 22016/05/06 13:30

5月3日に母校帰りを果たした様子をお伝えする早稲田大学ツアー、本日は第二回です。一回目で大隈講堂までたどりつきました。今日はその続きから歩いてみましょう。
大隈講堂を背にすると、正門側になります。正門と言っても門らしい門はありません。これは、開かれた大学を意識するためです。それでも毎度開いていることもできない状態がありますので、一応閉じることができるようにはなっていますが、限りなく目立たないようになっています。正門前は広々としていて、近くにじんちょうげの花壇もあります。季節になると、ここのじんちょうげが癒しで、この前にずっと居座って季節を感じていました。
中に入ってくると、大隈銅像があります。大学の中で人の往来が多い地点に立っていて、銅像は都の重要文化財に指定されています。銅像の背面から大隈講堂を一緒に撮るのが早稲田写真のポイントで、このセット写真はあらゆるものに使われております。正門から中を見てわかるとおり、銅像の方に向けて少しだけ土地が上がっておりまして、その関係でこうした写真を撮ることができるのです。
この写真から見ると、右側に銅像や講堂があります。左側は商学部11号館です。11号館は私が大学院生のころから建て替えが進んでいましたが、その資金集めは校友の寄付が重要で、私はそれの宣伝事業に少しだけ手を貸しました。寄付したのではなく、宣伝用の素材作りを手伝いました。私の入試は11号館で受けましたが、今の11号館ではありません。ちょっと名残惜しい気持ちもありながら、老朽化や建物の小ささはやむを得ぬ事情でしょう。しかし、この通りの眺めはなかなかよいものです。
さっきの道から外れますが、演劇博物館というものがあります。私のいた、文学部の演劇映像専修と深く関わりのある施設です。建物は古く木造で、博物館というだけあって展示物があり、企画展示も行います。一階には図書室もありますが、そこの本は大学院生か、演劇映像専修の学生しか借りられないはずです、確か。一般の学生は借りることができなかったように思います。本はかなり特殊なもので、例えば映画の脚本などを所蔵しています。アニメ映画の脚本も持っていて、資料としてイラスト集まで所蔵していました。私の中では、カードキャプターさくら関係の収蔵品が、当時としてかなり印象的でした。
ここでは見学の授業もありました。キャンパスこそ文学部とは別ですが、演劇映像専修と密接に関係しているため、そこにいた私はここでの記憶がたくさんあります。企画展示も毎度必ず見に来ていました。実は正面が舞台になっていて、屋外演劇に使うことができます。ただ、観覧できる場所があまりないため、ここが在学中に舞台に使われた記憶は数える程度しかありません。
演劇博物館は常に一般公開されており、大学関係者ではなくても、いつでも見ることができます。
再び大隈講堂前に戻ってくると、私の記憶にはないものがあります。ここだけは営業していました。カフェとお土産屋が一体化した施設です。このように屋外カフェにもなっていて、陽気もいいので人がたくさんいました。ほぼ外部に向けた施設と思われます。ただ、学生も大学グッズを買うでしょう。早稲田の学生は自分の大学のグッズを結構持つ方なので、学生に需要があります。卒業すると、それはそれでお土産として何かを買います。私も買ってきました。建物中の印象は、スタバですかね。
ところで、なぜ同じところを行ったり来たりしているのかというと、大学の近くにある大隈通りを大学の側から通るためです。大学に通っていた時代を追体験するため、効率を排して見たいように回っています。その大隈通りを途中から22号館の方に横道へ入ると、こんな場所に店があるのかと思わせる場所に、にこにこがあります。私が在学中にできまして、友人伝いにうわさが回ってきます。うわさを元に食べに行って、くせになりました。初めてここで油麺というものを知ったのですが、四街道くんだりでは油麺を食べられる店がなくて、忘れられない懐かしい味を体験するには、大学に来るしか方法を知りません。休み中は閉まっていること確定だったので、営業していませんでしたが、残念です。ま、結果的に昼食は油麺を他の店で食べたのではありますが・・・。
来ました、22号館。ここは早稲田キャンパスの敷地より少し外れた場所にありますが、大隈講堂のように、キャンパスとくっついています。私が大学在学中に、大学のどこで過ごした時間が一番長いのかと言われたら、一位は図書館内の職場ですが、二位はここです。ここは昔は国際部とも呼ばれていて、国際とつくものはここに集められていました。今でもインターナショナルセンターを名乗っていますね。当時は語学研究センターもあり、様々な言語を学ぶことができました。私がここで学んだ言語は、ドイツ語とバスク語です。ドイツ語は短期留学のため、バスク語はここでしか学ぶ機会もないと思ったからです。アイヌ語もレアでしたね。
22号館の一階には24時間開いている端末室があります。私が端末室でのアルバイトを始めたとき、最初の勤務場所がここでした。その時のペアであった人は、どういうわけか千葉市長になっていました。こうした話にリアリティが出る写真だと思います。国際部と通称言われるだけあって、留学生の日本語研修もここでやっています。そのため留学生が多く、3階のラウンジに行くと、いろんな国の学生と交流ができます。私も一時期、留学生と交流したくて出入りしていましたが、特定の人と特定な関係になってしまってから、ひやかしを避けるために行かなくなりました。人はそれを色恋沙汰と言いまして、私は韓国人の人と走りました。話すととにかく、22号館だけで記事になります。端末室での思い出、授業、色恋、いろんなことがありすぎて、今でも胸がキュンとします。ここに本部を置いていた日本語教育の大学院に落ちたことが、その後の人生も左右しました。落ちて失敗ではなく、落ちて正解だった方です。
北門の正面に、道を挟んで建っているのが図書館です。22号館ともほぼ向かいの関係です。図書館はここから見ると左側の方で、同じ建物右側は、総合学術センターと呼ばれ、ホールや展示室があります。大きなイベントにはここにあるホールを使用します。私も何回か入っています。そういえば喫茶店もありました。
私は大学院に入る前の年の7月から、図書館の学術情報課、後に情報管理課と名を変えますが、そこでWeb管理者として働いていました。当時図書館のWebは新しく作り直す必要があると言われていて、とにかくひどい状態になっていました。しかし情報は常に公開していかなければならず、総務のとある人が私を格上げして、Web管理人に仕立て上げました。最終的には、唯一のWeb技術者だった私が消えたため、外注してWebを作ることになったわけですが、予算的に当時はそれをやらないようにしていて、まず大変な現場でした。図書館の裏事情をおかげでよく学べました。また、図書館がどのようにして動いているのか、どんなものがあるのか、学生としてはつかみきれない実体像がわかりました。まずですね、図書館の用意してある機能というのはものすごいものまであるのですが、使いきれる人はいないです。学問分野によっては利用しないサービスもあるので、そんなことができるのと思う人は多いでしょう。
学生で使っていることもありましたが、ここは私が社会人として生きていた場所です。働いていた部屋を外からのぞきながら、あれから10年経ったのかと、時の流れを感じました。
図書館の門は、片側だけ見るとこのような形になっています。これが両側で閉じると、早稲田のWになるのです。建物も上から見るとWになっていて、早稲田大学図書館というのを大きく前面に出しています。大学図書館って、大学の図書館だと思っている人がほとんどだと思いますが、大学図書館は大学図書館として世界中に横つながりの組織があり、学問の先端を支えるための技術と現場が集約されています。所蔵資料の数も、普通の図書館では考えられないほどの数ですから、使える人が限られてはいるものの、一般的図書館よりも先を進んだ図書館です。だから、早稲田大学図書館と大きく名乗るわけです。
あとひとつ、図書館は図書を提供している場所だと考えている人が多いのですが、提供しているものは本ではなくて情報です。情報を提供する方法が紙であったり、電子媒体であったりします。紙媒体は見やすいので、どうしても本を貸している場所という印象が付きまといますが、図書館では本を冊子体と言って、あくまで提供媒体のひとつとして考えます。

22号館と図書館という、私にとって人生が詰まっている場所を通ったため、長くなりました。ここへ駅の方から抜けるには、大学の中を通る方法と、外側の通りを抜ける方法があります。往来パターンが3つあり、今回はそれをすべて体感してきました。この間を往復して、それぞれの道を見てきました。住宅はあまり変わらないのだけど、店が変わっているのはけっこう見かけて、商売を続けていくことの大変さも感じました。変わらない店を見ると、だからすごく安心しました。
今回は思い出というか、別の語りもしてしまいましたが、これにて第二回は終了です。第三回に続きます。

早稲田大学ツアー 32016/05/07 22:55

5月3日の早稲田大学へ行ってきたことを学生時代の話もからめて語る早稲田大学ツアー、今回は第三回です。第二回は図書館の前までやってきました。ここからキャンパス外側を主にめぐります。
北門前です。大隈講堂からまっすぐ銅像の方に向かい、右に折れて並木道を通過してまっすぐ来るとここに出ます。ちょうど図書館を背にしているところです。周囲は教育学部の建物がありますが、この十数年の間に校舎の建て替えが進み、教育学部の校舎は相対的に古くなっています。一部には耐震補強がされていました。
北門は図書館や22号館に出るための場所としての性格が強く、ここから大学に入っていくという感覚はありません。
学生生活の基本となる生協です。ここは抜ける方法がいくつかありますが、今日は校舎が閉まっているので、校舎内を抜けてくるルートは通れません。校舎内を抜けるルートは非常にわかりにくく、最初はどこが入り口なのかも苦労しました。生協は本キャン内ではここがいちばん大きく、写真の通りに地下と地上2階があります。
地下の書店は専門書のそろえが充実していて、よく考えながら本を選んでいました。どの本を買うべきなのか、一時間くらい迷うことは珍しくありませんでした。私は図書館で調べ物をするというスタイルはとらず、自分にとって必要な知識を選び、本を買って頭に入れていくという方法をとっていました。レポートの時だけ本を見て調べているようでは、深い知識は手に入りません。普段から本を読み、知識を深めて見識を手に入れれば、授業からレポートから幅広くこなせます。なので、当時のアルバイト代は、本代かPCのパーツ代に消えることがほとんどでした。
1階では生活物資、食料品を扱っています。昼になるとここでパンを買うことは至難の業です。早稲田の周辺には食べる方法がたくさんありますから、私はほぼ外食か持ち弁で、弁当やパンなどを買うことはしませんでした。おやつはよく買っていましたが。図書館で仕事を始めてからは、定期的にお茶のパックを買いに来ていました。それとおやつです。仕事中におなかがすいちゃうんですよ。仕事場にはコーヒーがあったのですが、私はコーヒーを飲まない人ですので、ほうじ茶を買ってきて、水筒に作っていました。
トラベルセンターはお世話になったことがありません。今でもそうですが、私は昔から旅に出たいという欲望がなくて、学生時代に一人旅や友人旅をしたことがないです。あ、一度あった、ありました。A先生とかと、車旅行が一度ありました。
早稲田通り沿いの敷地に、私が通った大学院の校舎があります。大学院は本庄にも校舎を持っていて、直通バスを使ってそちらにも行きました。残念ながら、大学院は基幹理工学研究科に吸収され、独自に学生の募集を行っていません。大学院は独立大学院と呼ばれ、学部を持たない大学院でした。そのため、しがらみが少ない、非常に優れた大学院であったとは思いますが、理工学部が再編されるにあたり、吸収されました。結局、できた当初は当時の理工学部ではまかないきれない分野でしたが、理工学部再編に当たって、人材を吸収されたわけです。時の流れでしょう。
この建物は使われている様子がなく、将来的には壊されて新しい建物ができるような予告が貼ってありました。私はいい時期に大学院にいられたのだと思います。
大学院近くにある道を抜けて大学に戻ると、校舎新築ラッシュのさきがけとなった、14号館が見えてきます。教室はいろんな学部が利用します。設備も充実していて、売店もそなわっています。ホールに近い教室もあり、後の新築校舎のひながたになっている印象を受けます。とにかく大きく、高いです。ここで受けた授業もありますが、私にとって大切な思い出はふたつあります。ひとつが階段の踊り場。窓枠近くに、居心地はよくないけれど、座れる場所があるのです。上の階に行くと、隣の校舎の上をこえて、池袋が見えます。そこでよく、家から持ってきたお弁当を食べました。遠くを見ながら、ゆったりする時間が幸せでした。
もうひとつが、6階にある端末室です。ここの端末室は当時MNCが管理していて、私もアルバイトとして勤務しました。ここのプリンターが古くて使いにくく、質問がしょっちゅう来るんですよ。勤務場所は半年で一度交替しますが、3年間続けた仕事で、何度かここに当たりました。で、私が勤務していたときの最大の事件がボヤです。燃えたんですね、ケーブル類が。抜けかかっていた電源に、セキュリティーワイヤーと呼ばれる、PCを持っていかれないようにするため固定しているワイヤーが接触し、火花が出て燃えました。炎が天井近くまで上がって、黒い煙が出ました。相棒のケビンが急いで本部のMNCに連絡をとり、私は教室にいた学生を全員部屋から出しました。そうしたら、消火器を持った警備員の人がすぐに駆けつけて、火を消しました。管理室で漏電の警告が出たため、急いで来たそうです。その後、消防を呼んで現場検証などなど。一時、周囲は騒然としました。これは本当に大変でした。忘れようにも忘れられません。
14号館付近は土地が上がっています。早稲田は、馬場下町交差点を下に、高田馬場に向けて急に土地が上がっています。その関係で、キャンパス内に必ず段差が発生するのです。14号館内部を通ると、階段ではなく、エレベーターやエスカレーターも使えるため、ちゃんとバリアフリーで移動できます。ここの景色も、何度も通りながら見慣れた景色です。
いろいろ歩いてきましたが、本キャン付近の地図はこうなっています。現在位置はというと、21の数字が見えるところの丸のあたりです。21は大隈講堂を示します。18は図書館で、17が生協です。早稲田通りが地図、上の通りですが、そこに面している建物が大学院の校舎です。大学院校舎近くの横道を通り、14に抜けるルートが何となくわかると思います。次に向かうは24号館。24は地図の下の方にあります。そして数字の桁がなぜか違う、120の前を通りましょう。
24へ抜けるには、大隈ガーデンハウスという、巨大な学食を本来は抜けます。が、この日は学食が閉まって通れないため、鶴巻町交差点を通って抜けます。その交差点のすぐ近くには、私がよく通ったビレンがあります。店の看板より、メニューの一部を撮ってきました。ここは焼き魚を出してくれる珍しい店で、しかもこれだけの内容で500円という、とてつもなく安い値段で出してくれます。本キャンより少しだけ離れ、学生の少ない所に位置している関係で、ここは学生より近くのサラリーマンで混み合います。私がここに通うようになったのは、図書館勤めを始めてからでした。職員の昼休みは学生と違い、12時半からで、学生と30分ずれます。これくらいの時間で入ると、ちょうどうまいタイミングで席が取れるのです。12時半からテレ東でアメリカンドラマが始まりますが、ここで見せられたおかげで、家で予約録画をするようになりました。昼休みが12時半から1時間ですから、ドラマをきっちり見ることができません。それがくやしくて、家で録画をして、帰ってから見ることにしていました。
こんなところに入り口があるのかと言いたくなる場所ですが、24号館の学生入り口はここです。24号館は、今は名前を変えましたが、当時はMedia Network Center(MNC)と呼ばれる学内組織の本部が入っていて、そこが4階までを占めます。学生が使うのは5と6階で、ここには端末室しかありません。要は学内ネットワークを取り仕切るサーバー施設です。学部学生当時、私はこのMNCでアルバイトをしていました。すでに書いてきましたが、勤務場所には14号館や22号館があります。リアリティを求めると、こういうものが残っています。
学内には学部が管理する端末室と、MNCが管理する端末室があります。そのうちのMNC管轄の端末室内において、学生の質問やトラブル対処に当たる仕事をします。勤務場所は半年単位で変わり、授業のない時間を利用して仕事をします。私は午後勤務の13時から18時までを週二回から三回入れて、三年間やってきました。たまに勤務交替で入る場合もあります。また、夏季休業など、授業が休みになる間にも仕事があります。
最初に入った場所が22号館で、ここはかなり厳しい場所のために磨かれました。何せマナーの悪い学生が多い、プリンターはしょっちゅうトラブル、利用者数が多い、留学生もいるで、広い対応力が問われます。22号館は二人体制勤務で、最初のパートナーが熊谷さんでした。千葉市長になっているので名前出しちゃいます。一緒に仕事していた人が気付いていたら市長って、微妙な気分ですよ。
ハードな勤務のもうひとつが9号館で、ここは一人勤務なのです。9号館は法学部大学院の学生が使うことが多く、大学院生にもなると質問も少なくて、プリンターもないことから、基本的にヒマでした。すると、気をつけないと眠くなります。これも激務でしたね。
私にとってMNCの仕事はサークルみたいなものでした。これは学生と大学院生しかできない仕事なので、外部の人は入りません。だから、サークルほど自由ではないけれど、仕事仲間と話したり飲みに行ったり、サークルのような楽しみ方もありました。
最後の最後に激務があり、私が卒業した次の年次から、科目登録をマークシートではなく、オンラインに変えました。それに合わせ、Waseda-netという新しいシステムも導入したのですが、これがトラブル続きで動かず、科目登録できない学生が救援の手を求めて押し寄せ、すべてがパンクしました。人手、MNCから学生の波から、すべてパンクです。私は卒業して最後に魔の手を逃れました。でも、卒業は3月25日ですが、勤務は31日まであるのです。最後のパンチは強烈でした。結局、科目登録はマークシートでやり直すことになり、ニュースになってしまいました。あの修羅は忘れられません。
この仕事は、私にとってはいい思い出がたくさんあり、学生時代の充実した活動のひとつでした。
研究開発センターと名乗ってる謎の場所、それが120号館です。ここ、早稲田実業高校の跡地なのです。実業高校は私が学部学生のころ移転して、ここが空き校舎になりました。それを大学の校舎として利用することになりまして、ここにも端末室が置かれました。ところが、ここに端末室ができたことを知っている人は少なく、当時は快適に使える隠しスポットとなっていました。ここもMNC管理の端末室でしたが、勤務が20時までで、私は帰りが遅くなるため勤務しませんでした。が、当時仲のよかった大学院生のケビンがここで働いていて、私が一般利用者として使ってきたときちょうど会いまして、勤務後に一緒に高田馬場のやきとり屋に飲みに行ったことがあります。
当時は早稲田イノベーションという、学生が始めるベンチャー企業のオフィスをここに置けるというサービスを提供していましたが、今はどうなっているんでしょうか。ここの前にある雑貨屋は、今でも元気に営業していました。

ここまでで、見てきた場所のだいたいは紹介してきました。これから昼食をとって、戸山公園を抜けて歩き、最後に理工のキャンパスを外側から見たいと思います。今回はMNCの話をいろいろしました。本キャンで授業を受けることは決して多くなかったので、本キャンではMNCで働いた思い出がかなりつまっています。それもまた学生時代に大切なことでした。次回に続きます。

早稲田大学ツアー 42016/05/08 22:53

5月3日の母校帰りを果たした様子を紹介する早稲田大学ツアー。120号館まで来ました前回、今回は最終回で、昼食をとってから戸山公園を抜け、理工のキャンパスに向かいます。
120の前を通過すると、駅の方へ近づきます。駅近くで有名な店がこれ、メルシー。店の名前から出しているものの想像がつきませんが、本質的にはラーメン屋です。私もここは食べたことがあります。硬派なラーメン屋というより、メルシーな感じです。何と言うか、入って食べると納得させられるものがありまして、隠れファンは多いと思います。
さて、そろそろ昼食をとらなければいけませんが、休みなのでやっている店が少ないです。たまたま、メルシーの近くに、私が学生当時では営業していなかった店を発見しました。しかも油麺です。油麺はこの周囲ではメジャーになりつつあるのでしょうか。他にも油麺の店を見つけました。とにかく、にこにこが閉まっている以上、油麺を食べるなら他にありません。入ってみました。
いきなり食券を買う方式で驚きましたが、店は落ち着いた食堂という感じで、値段も500円と手ごろでした。味はにこにこと同じような、れっきとした油麺で、大変満足度の高いものでした。麺が太くて食べるのが大変だったのだけ気になりますが、休みの日にうまく食事にありつけただけでも幸運でした。
昼食も終えて、いよいよお別れのときが来ました。大学周囲を歩き回っているだけで2時間もたっていまして、ここから馬場へ歩いていくと、ミカドでゆっくり見て回る時間が少なくなります。しかし、大学をここまで見られたなら、ミカドはほどほどでいいかという満足感がありました。7年以上通い、人生の大事な時期を過ごした場所です。それぞれの場所に思い入れがあって、書き尽くそうとしてもきりがありません。校舎の中に入れたなら、きっとまたいろんな思い出が出てきます。今回は文学部に入れなくてもこれだけ出てきましたからね。
それでは馬場に向かって歩きましょう。馬場へ行くには、普通は早稲田通りを直進すればよいのですが、私は戸山公園を抜けて行きます。これは昔、理工のキャンパスに通うために通った道で、せっかくですから思い出の道を通ることにしました。
戸山公園は、戸山キャンパスのすぐ近くにあります。昔の軍事演習場のため、公園は広いです。見ればまたいろいろありますが、今回はただ歩いて通過するだけにします。休日だけあって、公園はいつもより多くの人が出ていました。平日は静かな散歩コースです。
休日らしく、野球をしている人達がいました。それなりの広さがありますので、野球やサッカーなどもできます。他に、花壇のある場所、ゆったり座れる場所など、広々したよい場所です。ここへお弁当を持って昼食を食べに来たこともあります。
戸山公園近くの住宅街は、袋小路になっていて抜けることができません。理工のキャンパスへ抜けるには、この道を通ります。住宅街の公園を過ぎて少し行った先、ここがかつてカラスに襲われた場所です。何気ない通りですが、この付近に生息するカラスに、後ろから頭を爪でつかまれたことがありました。私は自転車で新宿に向かう途中でしたが、カラスの影が私の頭上に現れ、いきなり頭をつかまれました。驚いてうろたえましたが、そのまま走って逃げました。東京都内で人がカラスに襲われる事件は有名ですが、隠れて私も被害を受けていたのです。
ここを抜けると、大きな四車線の通り沿いに、理工のキャンパスが見えてきます。理工で少し授業を受けたこともありますが、理工展や、生協に食事へ来ることがメインでした。理工には理工の生協があり、売店から食事どころまで揃っています。戸山からなら10分程度で来られるので、私はせっかくですから利用していました。ただ、人口に対して施設の許容量が少なく、あまり恵まれているとは言えないでしょう。
早稲田周辺と違い、理工の周辺は周囲の町まで大学と一体になっているのではありません。こうして、道路で区切られた空間に、いきなり大学だけあるという感じです。ある意味典型的な東京にある大学ですが、早稲田キャンパスに出てくる学生も多くいました。中央に見えるのが研究棟ですが、これが非常に高く、土地の狭さを物語っています。理工にもいずれ、校舎の建て替えラッシュが訪れるかもしれません。

目の前の通りを北に行けば池袋、南に行けば新宿です。自転車で何度も行き交った通りです。ここを通って早稲田通りに戻れば、高田馬場へ抜けます。こうして私の母校帰りは一段落しました。しかし、高田馬場に抜けても、ミカドどころか、飲み会で集まった場所、通った場所の思い出ラッシュで、私にはミカドになじむどころではありませんでした。
4回にわたって書いてきた早稲田大学ツアー。見てきたものをまとめておく意味だけでなく、私にとって早稲田大学という場所が、町が、どれだけ特殊な意味を持っているのか知ってもらいたいと思いました。人によって大学への思いはいろいろ違うと思いますが、私にはかけがえのない場所であり、思い出が包んでくれる、あたたかい場所でもあります。早稲田は、卒業している校友であっても、見に来るだけで受け入れてくれます。わざわざ校友向けにそういう日も用意していますが、普段でもまったく問題ありません。例えば自分の高校に戻るとなると、いちいち正面から手続きして、何しに来たのか書かされますが、早稲田はそういうことはなく、いつでも戻ってきていいように大学が整っているのです。それは私が学生であったころから知っていました。懐かしいお店の味を求めて戻ってくる人もいます。図書館では、校友会のカードを持っていれば入ることもできます。早稲田は開かれた大学であることを目指しているので、それも大きいと思いますが、何より校友とのネットワークが大学を支えてきている面があり、それが早稲田たるゆえんでしょう。
知らない人にとっては、早稲田はただの一流大学としてしか映らないかもしれません。確かに入試の現実や、入ってきている学生の現実を見れば、愕然とするくらい優秀な道を通ってきた粒ぞろいです。実際私は大学で、それぞれの高校の話を聞いたですが、まず県内では三本指に入る進学校、その中でさらにしぼられた人間しか入ってきていない印象です。逆の言い方をすれば、粒が揃っているがゆえに、そこから更に抜きん出ることが大切になります。それには大学が提供する多くの資源を活かし、自分で努力しすることです。大学の提供してくれる資源には、校友ネットワークも大きく関わっています。学生のうちは早稲田の力を借りる。卒業したら、早稲田に力を貸す。その関係が、開かれた大学としてうまく回っていると思います。

私なんかは、母校のために何もできていないかもしれません。それでも、自分に十分力が備わってきたら、それはできると考えています。そういうものです。受けた恩がいくらでもあり、大学に行ってみれば、具体的に次々と出てきます。それを忘れることはできません。私は、様々な機会を与えてくれた大学が好きです。自分にとって大切な世界を誰かに知ってもらいたい、それがこの早稲田ツアーの記事でした。
最後に、大学の中にはこうした講演会などの看板があちこち建っていて、こうしたものに自主的に参加することも大切な学業です。看板は昔からこの手書き形式なところに、また安心を感じました。